第5話


 17時55分、生島は一通のショートメッセージを送った。

 相手は雪乃だ。教員と児童生徒の個人的なSNSでのやり取りは禁止されているが、彼女と生島の母は仕事の同僚であった。仲の良い親たちに挟まれ、何かあったときのためにと押し切られて連絡先を交換したのだ。


『千種はほんとに帰ってんのか?』


 ややあって、返信が来た。


『帰ってるよ。どうしてそんなこと聞くの』




 人口3000人余りの小さな町とはいえ、その中でも「中心街」と呼ばれる場所は存在する。

 弥沼町、晴山はれやま地区。商店街、診療所、学校、市役所─公共施設が数多く集まるるそんな地域を、生島は早足で歩いていた。


「夕雨、仕事終わったのわ?」

「終わってねえ!」

「ああ夕雨くん、おばんです(こんばんは)」

「ん、おばんです」


 時刻は18時半。夏至まで残り数日に迫り、未だ夕焼けの残滓が空の端を染めている。

 散歩する老人たちは、薄闇と山から降りてきた夜霧に輪郭を溶かしているが、その声は幼い頃から聞き慣れたものばかりだ。

 短く返事をしつつ、橙色の街灯に照らされた道を進む。温かな色の光は、夜霧に霞む道を煌々と照らしていた。

 やがて、道が拓ける。目の前に広がるのは、L字に建てられた木造の8軒長屋と、間に挟まれた古い商店、それらの中心に構えられた駐車場だった。

 別の町を訪れてみると、大抵の古い商店街は軒並みシャッター街となっているものだが、この弥沼商店街はそうではなかった。

 大手コンビニチェーンも、外資系のスーパーや家電量販店も、木々と霧に隠されたこの町が見えていないらしい。店舗を構えたところで、採算は取れないと分かっているのだろう。

 生島は長屋の角部屋の前に立ち、ベランダに干しっぱなしの洗濯物をちらりと見上げたあと、次いで足元の電飾看板に目を落とした。

 「スナックさつき」─目映い紫色の光を放つそれはところどころ錆びついているが、僅かに開いた引き戸からは、賑やかな喧騒が漏れていた。

 生島は勢いよく引き戸を開け放つ。途端、染み付いたタバコと酒の匂いが、エアコンの風に流されて顔に当たった。

 中にはカウンター席が5つ、4人がけのソファがふたつ、カラオケのステージがひとつ、淡い色の照明に照らされた店内を埋め尽くしていた客が、ぴたりと静まり返って入口を見る。

 そして、戸を開けたのが生島だと分かった途端、スイッチを切り替えたように再び大騒ぎが始まる。

 田舎における憩いの場は、地元住民のためのものだ。常連客が揃っているというのにやってきた「侵入者」が何者か、皆警戒したのだろう。


「さつきママ!」


 喧騒を裂くように声を張り上げる。すると、ソファにもたれていた影がムクリと身体を起こした。


「あらぁ、珍しこと。夕雨くん久しぶり〜」


 年の頃は30代後半。紫のアイラインで強調された切れ長の目と、胸元が大きく空いたマーメイドドレス、そして隣に座る男性客よりも大きな上背が特徴的な女は、真っ赤な顔で手を振った。


「一杯飲む?あ、明火あけび来てなかったっけ?明火ちゃーん!」

「今日はまだ来てねど」

「三島ん爺様のとこだべ」


 生島は、口々に離す客たちを遮った。


「なあママ、千種帰ってきたか?」

「いやあ、3人ともまだよ〜」


 千種は帰ってきていない。生島の背に冷たいものが伝った。

 雪乃の言葉は嘘だった。誉緖に話したことも、ここに来る直前、生島が送ったメッセージに対する返信も。

 異常事態を知らない女は、左手にロックグラスを、右手にタバコを持って上機嫌だ。


「伊織ぃ?あの子帰ってきたの?」

「いやあ、洗濯物出しっぱなしだったど」

「ママが取り込まねから」

「んだってあたし、昼寝てんだもーん」


 左右に座る常連客と話しつつ、女─スナックさつきの店主である名生館みょうだてさつきはけらけらと笑う。

 女一人で3人の子どもを育てる苦労は並大抵のものではないと分かっているが、生島は彼女と相対するたび、苛立ちを抑えることが出来なかった。


「12の娘が暗くなっても帰らねのに心配しねえのかアンタは」

「平気平気、うちの子ら皆そうなんだから。毎日のっつぉばりついてさあ」


「のっつぉつく」というのは、ふらふらと遊び回る様を表す、宮城県北西部独特の表現だ。


「なあ、千種から連絡来たんだ。知らねえ場所さ居て帰れねえって」

「嘘ぉ」


 10数年、数多の男を相手にその話術で商売を続けてきた女は、生島の嘘を見破った。


「んな電話来たら、夕雨くん大慌てで駐在所さ駆け込むべ?もう、あたしのことビビらせようとしてやあ」

「……」

「千種なら大丈夫。うちの子らは皆しっかりしてるし、身体も丈夫だし。あたしの仕事はお店でいーーっぱい稼ぐこと!ほらみんな、もっと呑んで〜!夕雨くんママみたいに、うちの子らも大学入れんだから!」


 さつきはグラスを勢いよく振り上げた。中に入ったウイスキーが、照明を反射して輝きながら飛び散る。


「でもよお、夕雨んとこは母ちゃんも先生してたし」

「稼ぎならママも負けてねえべ」

「夕雨は頭の出来がちげえからなあ」


 生島は、さつきの手からグラスを取り上げ、中身を一気に飲み干した。


「あー、お酒ぇ」

「良いか、とにかく今日のは、普段の家出と違えんだよ」

「ええ?」


 さつきは僅かに不安の色を覗かせるが、隣に座る客がそれを遮った。それは、学校の用務員として働く老人だった。


「ほっとけほっとけ。こいつ何でも大袈裟なんだから。都会行ってからますますや」

「はあ?都会も田舎も関係ねえわジジイ。学校の奴らが適当なだけや」

「千種のことや、どうせどっかでのっつぉついてんだべ?」


 そうだそうだと声が上がる。それに背中を押されるように、さつきも楽観的な笑顔を取り戻してしまった。 


「んだっちゃねえ、8時くらいまで戻らねこともあるし」


 ここで、誉緖の証言と雪乃の異変を話すことはできない。確証がない出来事を吹聴するのは生島の信念に反していたし、何より、商店街のコミュニティは狭く、結びつきが強い。

 彼はの無遠慮な人間関係を嫌っていたが、その重要性も分かっていた。生島の母もひとりで彼を育てる中で、近所の住人や親戚に何度も助けられたからだ。

 雪乃と千種、そしてスナックさつきと高橋書店の関係に軋轢を生むことは避けたかった。


「したっけ、8時に過ぎても戻らねようなら相談すっぺし。流石にそこまで戻らねえのはおかしいべ?」

「んー、まあ、んだねぇ。早寝の子だから、遅くはならねと思うし」


 そう促すと、さつきはやがて渋々ながら頷いた。隣の常連客は「心配性だ」と鼻で笑ってくるが、生島が笑い者にされて事が解決するなら安いものだと思った。

 彼は「絶対な」とさつきに念を押し、早足で踵を返す。次に向かう先は、雪乃の自宅である高橋書店だ。

 雪乃がなぜ嘘をついたのか、直接問い質さなくてはならないと思った。

 明らかに、教師としての責務を逸脱した行為である。しかし、生島は教師である前にこの町の住人であり、雪乃とは母同士が親密な関係を築いている。


─戻って来ねえ方が良かったか。


 戸を開くと、山から降りた冷たい空気が肺の淀みを取り去っていく。

 仙台よりもずっと明るい星を見て、生島はふとそう思う。教師と児童、昔馴染み、親戚、近所の知り合い、友人のきょうだい─教師となる以前から、小学校の子どもたちと結ばれた関係が、教師としての自分を曖昧にぼかしてしまっているような気がした。


『ふるさとが嫌いなの?』


 はたと、生島は視線を空から駐車場に戻す。スナック以外の店が既に閉店したこの時間に、商店街をうろついている者はいなかった。


─でも、今。


 誰かに、責めるような言葉を投げかけられた気がした。


「ねえ!ちょっとあんた!」


 刹那、脳を直接叩くような鋭い声に、ビクリと肩が跳ねる。

 駐車場の向こうで、閉ざされたシャッターのうちのひとつと、その真上にある居住スペースの雨戸が同時に開かれた。


「ちゃんとその辺探してよ!」

「探すも何も、どこにもいねえよ!」


 雨戸の隙間から漏れた明かりが、店の看板を照らす。『高橋書店』─その店主夫婦が、それぞれ一階と二階に立ち、悲鳴のようなやり取りを繰り返している。

 生島は考える間もなく、店の前に立つ店主に駆け寄った。


「高橋さん!」

「あ?ああ……夕雨!」


 店主は目を見開き、強く生島の肩を掴んだ。爪が食い込むが、その痛みを感じる間もなく、驚愕が彼を襲う。


「ゆっ、雪乃、雪乃が、雪乃見てねえか?い、い、居ねえんだ!」

「……い、居ねえって何や。あいつがひとりで何処さ行くってんだ」

「分かんねえよ!飯だから部屋呼び行ったっけ、返事がねえから……部屋開けて、んでも誰も居ねえんだ!あいつ、ひとりで階段も降りらんねのに!」


 じーーーーーーー


 じーーーーーーーーーー


 異音が、叫びを遮った。

 頭上の電線が低く唸り始めたのだ。

 電線の碍子に付着した埃と夜霧や雨の水分が触れることで放電する、ありふれた現象。聞き慣れたそれが、無性に不安を駆り立てた。


 じーーーーじーーーーー


 じーーーーじりじりじりじりじり


 電線を伝って、音が広がっていく。じりじりと、じわじわと。

 それはやがて、駐車場のすべてを呑み込み、通りを抜け、町中の電線を震わせていく。




「……来たか」


 ポツリと漏れた呟きに、誉緖は首を傾げた。


爺様じさま、なにした?」


 障子の隙間から外の様子を伺う曽祖父の背中に声をかける。しかし彼の問いに答えが返ってくることはなかった。


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