第4話


「ごめんねえ、倉庫のドアが引っかかって」


 あれほど呼びかけても返事ひとつしなかった担任の田中は、数分後に何食わぬ顔で体育館の奥から姿を現した。

 雪乃のスマホが盛大に音を立てたことにも、誉緖が呼びにいったことにも、少しも気が付いていない様子だった。


「あれ、実那子ちゃんだけ?」


 担任に送り届けられて支援級の教室に戻ると、実那子だけが椅子に座っていた。彼女は眼鏡の奥の目をぱちぱちと瞬かせ、不思議そうに首を傾げる。


「後ろに誰かいるよ」

「……いないよ?」

「えー、後ろの積み木で遊びたいって入ってきたから、良いよって言ったよ」


 3人で、教室の後方を見る。マットが敷かれたプレイスペースには確かに積み木が出しっぱなしになっていた。

 普通学級の下級生が入り込んで遊んでいたのだろうと判断し、田中はため息をつく。


「もう、生島先生が居ねと思って入ったんだべなあ。実那ちゃん、男の子か女の子か分かる?」

「うーん、どっちだべな。はだしだったから、男の子かも」


 視覚障害のある実那子は、侵入者の姿を見ることは出来なかった。しかし、その鋭い聴覚は湿った足音を確かに聞き取っていたのだ。

 裸足で遊び回る=男の子という彼女なりのロジックに田中は納得したようで、「下級生に注意しとくから」と言った。

 普通学級の児童がここに遊びに来ることは可能だが、トラブルや怪我を避けるため、それは生島が教室にいるときのみ許可されるというルールがあった。


「したっけ、生島先生戻ってきたらよろしくね」

「はーい、ありがと先生」


 雪乃がいつもの溌剌とした笑顔で田中を見送る。

 誉緖は、その様子から目を離せなかった。


「なに?」


 視線に気が付いた彼女が顔を上げる。


「さっきの、千種からの電話だけどよ」

「電話?え、電話来たの?」

「何言ってんだ。さっきお前が出てたべや」


 右手がスマホを取り出す。左手はその間、肘掛けの上でかくかくと震えている。

 やがて彼女は、怪訝そうに誉緖を見上げ、その鼻先に液晶を突き出してきた。


「何も来てねけど」


 誉緖は、字を読むことができない。発達性D読み書き障害D─その診断通り、彼は書字や読字に困難を感じ、特にこういった小さな液晶の文字を読むのは酷く苦手だった。

 しかしそれでも、トークルームにあるのは文字の羅列ばかりで、あの茅葺き屋根の民家の画像も、通話履歴を示す時間表記も存在しないことは読み取れた。


「……んでも、千種が帰れねって」

「千種ちゃんならもう帰ったよ」

「は?」

「帰ってるよ、とっくに」


 ふ、と空の雲が濃くなり、太陽を覆い隠す。いつもきらきらと光を受けている雪乃の大きな目にも、影が差した。

 

「か、帰ってるわけねえべ。んだって、泣いったのに」

「帰ってるもん!千種ちゃんも言ってたっちゃ」

「言ってたって、お前電話してねっつったべや!」


 捉えることのできない違和感が恐怖を誘い、やがて混乱を呼び起こす。乱れた感情が声を上擦らせ、雪乃に対する怒りとなった。

 対する雪乃も、自分より20センチ近く背の高い男子に怒鳴られたというのに、少しも怯むことなく、寧ろ苛々と肘掛けを叩いた。


「なしてそんな酷いこと言うの!誉緖は帰りたくねの?!」

「意味分かんねえこと言うな!馬鹿このっ!おかしいんでねえのかお前!」


 理解できない言葉を遮ろうと、誉緖は怒鳴り返す。呆然としていた実那子は、その途端火がついたように泣き出して、手探りで教室を飛び出していった。


「待ってんのに!ずっとあそこに居んのに!」


 次の瞬間、雪乃は左手を思い切り肘掛けに振り下ろした。ドン、と鈍い音が空気を伝って背骨にまで響く。


「帰ってきてよ!」

「おれはどこにも行ってねえわ!」


 そう、どこにも行っていない。

 誉緖も、その親も、そのまた親も、ずっとずっとこの弥沼で生まれ、育ち、結婚し、命を終えた。家族の魂も、心も、ただの一度もふるさとを離れたことはない。


「あいつと違って」


 誉緖の口から、無意識に言葉が放たれた。


「おれは、弥沼を捨ててなんかねえ。あいつと……あ?あいつって……」


 ─あいつって誰や?


 確かに胸の内に浮かんでいたはずのイメージがぼやけ、怒りと共に霧散する。

 今、彼は確かに感じたはずだ。ふるさとを捨てて、忘れて、帰ってこない「あいつ」に対する怒りを。


─いや、ふるさとってなにや?


「おい」


 尖った声が、思考の海に沈みかけた誉緖の意識を引き上げる。

 教室後方のドアから、左右に1年生ふたりを伴った生島が入ってきた。


「なにした?お前らが大声で喧嘩なんて、初めてでねえか」

「喧嘩?」


 雪乃がきょとんと目を見開く。たった今までの激しい狂気じみた怒りは、その目からすっかり消え失せていた。


「雪乃が訳分かんねえこと言うからや!」 

「はあ?何もしてませんけどー。そうだ、誉緖がさあ、千種ちゃんのことで突っかかって食っから!」

「落ち着け。千種がなにした?」

「家帰ったって連絡来たの」


 普段通りの彼女に戻った─そう安堵した気持ちはあっさりと裏切られた。


「したっけ、誉緖がなんか文句言ってきて」

「文句?」

「……」


 生島が誉緖を見る。先程までの恐怖を全部話してしまいたかった。しかし、また雪乃が先程のように狂気に駆られて怒り狂ってしまったらと思うと、声がうまく出せなかった。


「誉緖、なにがあった?話してみらい」

「……なんか、千種……」


 雪乃の目を見る。左手は肘掛けを握っていた。


「……千種っていっつも休んでるから、ムカついただけ。もう家帰ったって」


 最後の言葉を合図にしたかのように、雪乃の左手から力が抜ける。


「本当か?」

「……うん」


 生島は眉を寄せたが、それ以上の追及を行うことはなかった。代わりに、自分の背に隠れる実那子の頭を宥めるように軽く撫でる。


「喧嘩は終わったのか?」

「終わったよ。ね?」

「……大丈夫」

「したっけ、次やることは?」


 ふたりは、すっかり怯えてしまった実那子に謝罪して、次の休み時間には彼女と共にフラフープをした。

 その日の間、生島は誉緖を見るたび何か言いたげに口を開いたが、当の誉緖は徹底的に彼を避けた。


 千種は家に帰っている。

 写真が消えたのも、通話履歴がなかったのも、全部見間違い。自分がちゃんと読み取れなかっただけ。

 雪乃は少し気が立っていただけ。

 今日は、昨日や一昨日と何も変わらない、いつも通りの平日。


 そう言い聞かせなければ、絡みつく恐怖を振り払えなかった。


 


「誉緖」


 放課後。

 雪乃が家族が運転する車に乗って帰宅したのを見計らい、そっと校門から出ようとした誉緖のランドセルが軽く引っ張られた。


「……センセー」

「やっと捕まえた」


 誉緖を待ち伏せていたらしい生島は、ランドセルから手を離し、ぐるりと正面に回り込む。


「何があった?」

「……」

「千種がサボってっからムカつくって、お前んなこと考えたことねえべ?適当な言い訳だってバレてっど」


 生島は、児童の感情の機微には聡かったが、まだ年若いせいもあって、親身に相談に乗ってやることは苦手だった。正確に言えば、単純に経験値が少なく、どう言葉を選んで良いかわからないのだ。

 全く優しくは見えない仏頂面のまま、彼は探るように言葉を紡ぐ。


「雪乃の前だと言いづらいんだべ?」

「……」

「あー、したっけやあ、なして言いたくねえんだ?」

「……多分、変な話だから。信じないかも、センセー……」

「信じる」


 生島は長身を屈め、誉緖と視線を合わせた。眼鏡の奥で彼を見据える切れ長の目は、真剣そのものだ。


「お前のことは生まれたときから知ってんだ。深刻ぶって嘘つくような奴でねえことも分かってる」

「……ホントに信じる?」

「ん、信じる」


 彼はいつも明瞭で力強い。不安の靄を掻き分けて飛び込んできた言葉に、誉緖はやがて恐る恐る口を開いた。 


「体育館の前で、千種から連絡が来て……なんか、画像?が貼ってあって……」


 誉緖は辿々しく説明を始める。

 謎の民家の写真、泣きながらかかってきた電話、様子がおかしくなった雪乃─話しているうちに、異常な自体に対する混乱が整理され、明確な恐怖に変わっていった。

 喉の奥からしゃくり上げるような声が漏れ、視界が滲む。


「ほら」


 シワ一つなく真四角に畳まれた黒いハンカチが、少々乱暴な手つきで顔に押し当てられる。


「誉緖、質問して良いか?」


 彼はハンカチを受け取って頷いた。


「その写真の家には見覚えねんだな?」

「ない……」


 生島には、その民家が弥沼のものではないという確信があった。

 弥沼に残る茅葺き屋根の家は4軒。重要文化財に指定された「旧留守家住宅」と、3軒の有形文化財だ。弥沼の小学生ならば社会科の授業で必ず訪れる上、どれも誉緖の家の近所に点在している。毎日登下校の際に見かけるものを見間違えるとは思えなかった。

 つまり、千種は弥沼にいないということになる。雪乃の様子も気がかりだが、生島は安否の分からない彼女の捜索を優先することにした。


「千種は、見張られてて帰れねえってないてたんだな?」

「ひっ……うん、泣いてた……ねえ、千種どこ行ったの?雪乃、変になったの?」

「落ち着かい、千種のことも雪乃のことも、俺が今から見てくっからや。お前は家帰ってらい、な?」


 誉緖はちらりと校門を振り返る。殆どの児童は帰宅したあとで、まっすぐに伸びる道に人の影はなかった。

 ハンカチを握る手に、ぎゅっと力がこもる。


「……」

「んー、んだな。世の中物騒だし、誰か迎えさ来てもらわい。誰が来れ……ああ、徇助しゅんすけ呼ぶか」


 誉緖の兄の名を出す。彼には4人の兄がいる。その中で最もフットワークが軽く、弟を素直に迎えに来てくれるであろう人選だ。

 

「徇なら、何も言わねで来るべ」

「……ありがと」


 鼻をすすりながら、彼は礼を言った。


「礼は早えど。仕事終わったら、千種んとこさ行くから」

「何か分かったら、俺にも教えてよ」

「おう」


 生島はスマホの画面に目を落とす。

 電話帳の中から「スナックさつき」の名を選び、タップしようとして、彼は手を止めた。

 子どもの前で「彼女」と電話をするのは、いささか教育に悪いからだ。

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