第3話


「じゃあなー、誉緒!」

「今日の昼休みサッカーやっからお前も来いよ」

「良いよ」

「よし、おまえおれのチームな!」

「はあ?なに言ってんだよ、誉緒いれるときはじゃんけんだべや!」


 体育の授業が終わり、体育館前の渡り廊下に押し寄せた児童たちは甲高い声で騒ぎ合う。身体が大きく運動が得意な誉緒は、学校でそう肩身の狭い思いをすることは少なかった。男子小学生との社会においては、まず運動ができる者がヒーローになるのである。

 しかし誉緒は、自分を囲む子どもたちの輪から外れて、体育館のドアの前から動かなかった。


「誉緒、行かねの?」

「雪乃待ってんだよこいつ。やっぱ付き合ってんだ」

「はいはい」


 ムキになって言い返したい気持ちを押さえて、誉緒は適当にクラスメイトをあしらう。雪乃と連れ立っているのは1年生の頃からの日常だというのに、5年生に上がってから妙にからかわれることが増え、彼は辟易していた。


「お待たせ〜」


 ややあって、友人たちに囲まれた雪乃が体育館から出てくる。


「誉緒、ゆきちゃんのこと待ってたのわ?」

「仲良いごと」

「もう、そういうのじゃないって」

「分かった分かった」

「したっけ待たね、ゆきちゃん」


 どうやら彼女も同じようにからかわれていたらしく、車椅子の手すりに肘をついて口を尖らせた。


「もぉ、みんな勝手なことばり(ばかり)言ってやあ」

「田中先生は?」


 5年生クラスの担任の名を出すと、雪乃は顎で体育館の奥を指した。


「ちょっこら片付けあっから外で待っててって」

「ん」


 渡り廊下は、四角い石をはめ込んだ飛び石道となっており、車椅子で通るには車輪を持ち上げる等の介助が必要だ。とはいえ、ただ後部にあるティッピングレバーを踏み込んで車輪を上げるだけである。誉緒はそのくらいなら自分でも出来ると何度も進言しているが、生島は「子どもに子どもの介助はさせない」と頑としてそれを却下していた。


「バク転禁止令出されたね」

「あれはバク宙。手ついて飛ぶのがバク転、つかねのがバク宙な」 


 ステージの高低差を利用した後方宙返りを決めた誉緒は、クラス中から歓声を浴びたが、担任からはこってりと絞られた。


「6年生用のシートもらったから名前」


 早くも皺が寄ったそれを突き出すと、雪乃は慣れた様子で受け取った。


「誉緒ってひらがなで良い?」

「よくねえ」

「我儘だなあ。てか字デカすぎ。すき間足りねって」


 自由な右手と、不随意に震える左手で器用にシワを伸ばし、彼女は車椅子の肘掛けにプリントを広げた。そして、辛うじて「三島」と書いてあることが読み取れる歪んだ字の横の隙間に、なんとか「誉緒」と付け加える。


「ほれ」

「ん、ありがと」

「そういや、もう朝の話の続きってしちゃったかな。涼くん聞きたがってたし」

「気になんのか?」

「んだって、半端なとこで終わったっちゃ」

「あれ、センセーがうちの爺様じさまから聞いた話だど」

「んだの?続き知ってる?」

「知ってる。聞くか?」


 雪乃は体育館の中をちらりと確認する。薄い影を纏った空間からは、まだ担任の気配はしない。


「んー、聞こっかな。暇だし」

「とじぇん(暇)な」

「んだんだ(うんうん)、とじぇんだ」


 ふたりでわざとらしく言葉を訛らせて笑い合う。国語の授業で方言が取り上げられてから、5年生の間では古い方言を使ってふざけるのが流行っていた。


「したっけ、センセーが話したとこからな」


 誉緒は車椅子の側に体育座りした。


「集落を離れっとき、ひとりのばんつぁん(おばあちゃん)が言ったんだ。大丈夫、安心しらい。思い出せば、ふるさとはそのたんびに近付いてくっからって」

「近付いてくる?」

「んだ(うん)。村の人間が麓さ引っ越して暫く経った─雨の日かな。せっかく上手くいってきた畑がまた流されてはたまんねえから、畑の様子見さ行ったやつが居だったんだって」

「うちのおっぴさん(曾祖父)それで死んじゃったなあ」

「……そいつが畑さ行ったっけ、まあ畑は無事だったんだけど、端っこの方に何かが置いてあったんだって。何だべなと思って見てみたっけ、それ、そいつがちゃっこい(小さい)頃に遊んでたコマだったんだ」

「え?」

「昔、遊んでるときに飛ばしてまって、無くしてそれきりだったのに、全然カビたり壊れたりしねで帰ってきたんだと」


 誉緒は祖父の言葉を思い出す。

 曰く、この辺りでは遠い昔に無くしたものが、どこからともなくふっと現れることがあるらしい。

 それは幼い頃に遊んだ玩具であったり、亡き母の手料理の匂いであったり、生き別れた家族の幻であったりする。


「そういうもんを、爺様は、“ふるさと”が迎えに来るとか、帰って来るとか、呼んでるとか……そう言ってた」

「へー……ねえ、それどこの村の話なの?」

「さあ。無くなった村なんていくらでもあっからな。最近だと─」


 ぴろん


 雪乃のポケットから電子音が響き、彼女は右手を突っ込んだ。


「雪乃」

「んだって、千種ちゃんから連絡来たらすぐ返そうと思って」


 商店街の同じ長屋に住む千種と雪乃は、幼い頃から仲が良い。千種は気ままで人を寄せ付けないタイプだが、雪乃を見かければ必ず声をかけてきた。


「千種からか?」

「んだね、写真みたいだけど……ん?」


 トークアプリを開いた雪乃は、表示された画像を見て小首を傾げる。


「なにこれ、留守さんち?」

「……ちげえ」


 誉緒もスマホを覗き込む。

 その画像は、数メートルほど離れた位置から、見上げるような構図で一軒家を撮影したものだった。

 薄暗い林の中に佇む、よく手入れされた茅葺き屋根の平屋。開かれた玄関の奥に見える土間や囲炉裏─100年も200年も昔からそこにあるような年季の入った佇まいは、時代から取り残されたこの町でも、今や数軒を残すだけとなっている。

 「留守さんち」というのは、その中でも宮城県の重要指定文化財に指定され、観光地となっている「旧留守家住宅」の俗称だ。 

 しかし、写真の中の家は、町役場の職員によって管理されているそれとは違った。表には錆びた自転車や泥がはねた軽トラックが停まり、庭には物干し竿と洗濯物が見える。紛れもなく、人が住んでいる痕跡があった。


「誉緒んちでもないよね」

「これ、弥沼の誰の家でもねえよ。茅葺きの家さ住んでるのはもう何軒もねえから、皆分かる」

「千種ちゃん、弥沼の外にいるってこと?」

「本人に聞けよ」

「もう送ったよ。でも返信が─」


 ぷるるるるる


 けたたましい電子音に、ふたりはビクリと身を震わせた。画面が暗転し、塗りつぶされたような黒の中に電話アイコンが表示される。


「で、電話!」

「先生来っど」

「んでも……うーん、出る!」


 雪乃は一瞬の躊躇いのあとに、「応答」の文字をタップする。


「もしもし、千種ちゃん?」

『……』


 スピーカーモードにすると、がさがさと何かを踏みしめるような音が誉緒の耳にも届いた。人気のない場所を散歩するのは千種の趣味だ。


「なにしたの?」

『ゆきちゃん……』

「う、うん」

『千種、出れない……』


 鼻を啜るような音と共に、震える声が漏れた。


「え?」

「なにした、けがでもしたのわ?」


 混乱する雪乃に変わり、誉緒が問う。


『おじいちゃんが居て、見張ってるから……』

「お前んとこのずんつぁんか?」

『……さんの……ひと……出れない』


 ぶつ、ぶつ、と会話の端々に耳を突くノイズが走る。


「だ、誰かに連れてかれたの?」

『……帰れない』

「場所わかる?」

『……帰れない……』


 ふ、と通話画面が消え、もとのトークルームに戻る。軽快な電子音とともに、千種がいくつかのメッセージを送信した。誉緖はそれに眉を寄せ、すぐ画面から目を逸らす。


「おれ、先生呼んでくっから」


 脳裏に真っ先に過ったのは生島の顔だったが、ここは体育館の中にいる担任を呼ぶべきだろう。彼は、不自然なほど長く片付けに追われているようだった。


「先生!」


 照明が落ちた体育館に、変声期前の掠れた低音が木霊する。


「先生、居ねえの?」


 返事はない。夏だというのに、静寂は冷たかった。

 担任は恐らく奥の倉庫に居るのだろうと判断して、誉緒は中へと進みながら言葉を続ける。


「いま、千種から─千種ってほら、スナックんとこの娘の、6年の。あいつから電話来て、なんか変なんだけど」


 ジーーーーと、格子が嵌まった窓の隙間から虫の声が入り込んでくる。それは、静寂の膜にぶつかって、溶けてしまうようだった。


「ちょっこら来てけれね?─てか、おれら教室さ帰りてえし」


ジーーーーーー


「あの」

「誉緒ー」


 間延びした声に呼ばれて、誉緒は振り返る。

 雪乃が、体育館に背を向けたままスマホを覗き込んでいた。


「なにや」


 入口まで戻って、車椅子に座る背中に返事をした。


「千種ちゃん、帰ったってー」

「帰った?」


 正面に回り込もうとして、足を止める。

 丸い後頭部の下部に、きっちりと結ばれた三つ編みが2本垂れている。後ろの席から見慣れた姿に秘められた違和感に、誉緖はすぐ気がついた。


「お前……」


 誉緖は、曖昧にだが理解している。雪乃は「脳性麻痺」というもので、両足と左手を上手く動かすことができないのだと。動かそうとすると小刻みに震えたり、バランスが崩れたりして、身体が言うことを聞かないのだと。

 しかし今、目の前にいる雪乃は左手でスマホを持っていた。


「なあ、雪乃。お前─」

「わたしたちも帰る?」

「……なに」

「寂しがってるよ」


 誉緖は恐怖を振り払うように踏み出し、雪乃の肩を掴んだ。


「おい、雪乃!」

「へっ?なに?」


 かしゃん、とスマホが滑り落ちる。雪乃が弾かれたように振り返った。いつも通りの、彼女だった。


「もぉ、スマホ落ちたっちゃあ。何してんの。ほら拾って」

「……あ、うん、ごめん」


 状況を飲み込めないまま、誉緖はスマホを手渡す。その画面には、先ほど送られてきた写真も、メッセージも、通話履歴も残されていなかった。






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