第2話


 宮城県北部、国道108号線を秋田に向けて進み、県境に差し掛かろうかというところに、深き山々を切り開いたその町は存在した。

 弥沼町みぬまちょう。その名は、町を囲む山の中でも一際高くそびえる座貴山くらきやまの頂上に、見事な湖沼が広がっていることに由来する。

 そんな、人口3000人余りの田舎町の中心部には、少しの距離を置いてふたつの木造校舎が建っている。それぞれが、街唯一の小学校と中学校である。

 そのうちのひとつ、築80年を超える2階建ての木造校舎─弥沼小学校。L字に伸びる廊下の最奥に、色鮮やかな折り紙の装飾で飾られた教室があった。 


「次、高橋雪乃」

「はーい」

「三島誉緒」

「……」

「誉緒呼ばれてる」

「ん、はい」


 並ぶ机は4つ。座る生徒も4人。彼らの出席を取り終え出席簿を閉じたのは、長身の若い男だった。所謂ツーブロックマッシュの黒髪、黒いスタンドカラーシャツに黒のスラックス、全体的に洗練された印象を与える出で立ちの中、黒縁眼鏡の奥にある切れ長の目だけが、鋭く尖った異質な雰囲気を纏わせている。

 彼の名前は生島夕雨いくしまゆう。この弥沼小学校で、特別支援学級の担任を務める教師であった。 


「せんせー、おはなしはー」

「今からすっから、待ってらい。椅子揺らさねの倒れっから」


 1年生の実那子がガタガタと椅子を揺らすのを窘め、生島は教卓に肘をつく。


「あーー……したっけ今日は」


 特別支援学級では、朝の会に民話をひとつ語る。もとは思いつきで始めたことなのだが、想像以上に児童たちの食いつきがよく、今では毎日せがまれて習慣となってしまった。

 生島は、近所の老人たちから聞きかじった民話を書き留めた手帳を開く。


「あー……ふるさとの迎え?って話をします」

「ふるさと?」

「実那ちゃん、ふるさとってのはね自分が生まれたところだよ。んだから、実那ちゃんのふるさとは弥沼だよ」


 実那子の隣で車椅子に座るのは、お下げを胸のあたりまで垂らし、前髪を和柄のヘアピンで分けた少女─高橋雪乃だ。クラスでは三島誉緒に次いで年長の5年生で、他の児童に世話を焼いてやるのが好きだった。


「弥沼のおはなし?」

「ほら、センセー早く。誉緒も涼ちゃんも手悪さしない!」

「分かった分かった、良いから聞け」


 雪乃に急かされ、生島はやっと話し始める。



 早瀬川ってあるべ?町の真ん中通ってるあの川だ。その上流には、むかーしちゃっこい集落があった。住んでんのは大体50人そこら、村人は毎日畑の世話して、山で狩りして、のんびり慎ましく暮らしてた。

 んでもそのあたりにゃ、昔から長雨が続くたんび、早瀬川から鉄砲水が来てた。あー実那子、鉄砲水ってのはな、雨がいきなり(とても)降ったせいで増えた川の水が、水鉄砲みてえに噴き出して流れてくることや。おっかねえべ?んだから、雨の日の山は行かねこと。

 あるとき、3日くらい雨が続いた後の夜だった。龍みてえに大きな鉄砲水が来て、なけなしの畑がみんな流された。

 鉄砲水ってのはただの水ではねえ。途中で倒した木だの岩だのがまとめてやってくんだ。畑はあっという間に埋まってしまって、初めから泥と岩の塊だったんでねえかと思うくれえだった。

 その村さ住んでたのは、50人と少し。子どもや爺婆も合わせてだ。ぐちゃぐちゃの畑を直せる人手はねえ─何や誉緒、うちの会社なら直せる?んだな、お前んとこの爺様じさまならすぐ直してやれたべな。

 そんで、村人たちは山の麓─つまりこの辺りさ引っ越すことを決めた。麓にはまだ畑が出来る土地がいくつか余ってたし、迷ってる間に食料はどんどん減ってっちまうからな。

 村を離れる道で、誰かが泣き始めた。ふるさとが離れてく。生まれ育った家が、毎日遊び回った山が、思い出のすべてが、遠くにいっちまって、もう届かなくなる。子どもも年寄りも泣いてた。

 んでもそのとき、ひとりの婆様が言った─



 そのとき、軽快な電子音が生島の言葉を遮った。


「雪乃?」

「ごめんなさーい」


 雪乃は、家族の送迎によって登校しているため、連絡手段としてスマホを持つことが許可されている。しかし、それはマナーモードに設定していることが条件だ。


「いちいちマナーモード解除すんな。ずっとサイレントで良いべや」

「センセーと違って連絡するお友だちがいっぱいいんの!」

「は?俺だって連絡する相手くらいいますけど?」


 そのとき、朝の会の終わりを告げる鐘が鳴り、1年生の涼がバシバシと机を叩いた。


「おわっちゃった!!ねえ!」

「ほら落ち着け、涼。大丈夫、続きは休み時間な。国語の授業終わったら話すから」

「ごめんねえ、涼くん」


 雪乃は小さな1年生の頭を撫でて謝罪する。その傍らで生島はちらりと時計を見上げた。朝の会のあとは10分の休みが挟まり1時間目が始まる。この時間で続きを話しても良いのだが、一度乱れた皆の集中をもとに戻すのはなかなか難しいし、授業の準備などの手伝いをしなくてはならない。そして─

 彼は教卓の下で私用のスマホをポケットから取り出した。そして、メッセージアプリを開き、履歴の一番上にあるトークルームを開く。

 相手の名は「名生館みょうだて千種ちぐさ」。弥沼小学校の6年生だ。特別支援学級の児童ではないものの、生島の実家と同じ地区に住んでいるため、連絡先を知っている程度の交流はあった。

 昔から何かと学校を休みがちな児童ではあったが、ここ1年は殆ど校内でその姿を見かけていない。

 年配の担任教師は彼女のことをすっかり持て余しているようで、顔見知りの生島にその指導を半ば押し付けていた。

 家庭訪問まで代わりにやってくれと言われたときは、地元に帰ってきたことを後悔した。以前働いていた仙台の小学校では起こり得ない、曖昧なルールが生み出す掟破りな行動が、この町には溢れている。


「雪乃、お前千種と連絡取ってっか?」 

「今日?7時くらいにしたよ。学校行くのやめるって」

「はァ〜」


 朝の会が始まる直前、千種にかけた電話を思い出し額を押さえる。

 彼女は恐らく趣味の散歩をしているようで、まったく生島には取り合わずにさっさと電話を切ってしまったのだ。


「7時以降は?」

「まだ返事来てない」

「来たら教えらい。さすがに連絡がつかねえ所在もわからねえってのは危ねから」 

「先生が連絡したら良いっちゃ」

「してるけど出ねえんだよ」


 生島はスマホをしまい、姿勢を正した。


「誉緒、そろそろジャージ脱げ」

「はーい」

「雪乃もどっか痛えところとかねえか?」

「問題ナーシ」


 特別支援学級の児童は、すべての授業をこの教室で受けるわけではない。クラスの児童との集団生活を学ぶためにも、クラスと本人双方の負担の少ない範囲で、同学年の子どもたちと同じ授業に参加している。

 5年生の1時間目は体育─誉緒は必ず参加し、雪乃は屋内授業の時のみ、担任の教師や生島と共に軽い手足の運動を行っている。


「実那子、涼、先生戻るまで待ってらいね。ほら、折り紙やっから」

「「はーい」」

「雪乃、押すぞ」

「うむ、苦しゅうない」


 1年生ふたりに指示を出し、生島は雪乃の車椅子を押して教室を出る。


「誉緒どうや。体育楽しいか?」

「全然。みんな足遅えし、野球もサッカーも下手だし」


 隣を歩く体操着姿の誉緒は、少し格好つけたような仕草でそう言った。彼は昔から人並み外れて背が高く、既に160センチまで伸びている。彼にとってクラスメイトとの体育の授業は少し物足りないものであるらしい。


「今日は何すんのや?」

「マット運動。んでも、おれチェックシート埋まってっからすることねえけど」

「見せて見せて」


 雪乃にせがまれ、誉緒はくしゃくしゃのプリントを彼女に手渡してやった。


「うわー、ほんとに全部チェックついてる。あ、センセーも見にくる?今日誉緒バク転やんだって」

「雪乃、余計なこと言うな。センセーせずね(うるさい)んだから」

「俺じゃなくても言うからな。絶対やめろ」 

「ヤメマース」

「ウン、ヤメマース」


 この場だけ取り繕おうという意図が丸見えの返事に、生島は眉を寄せる。彼自身もなかなかに聞き分けの悪い子どもだったが、この仕事についてようやく、当時の教師の苦労を理解できた。


 ぎし、ぎし、きぃ、きぃ


 ふたりの話し声と重なって、車椅子の車輪の音と、足音が廊下の空気を震わせる。


 ぎし、ぎし、きぃ、きぃ、


 ぽんっ


 日常に混ざった異音を、生島は聞き逃さなかった。ふと後ろを振り返る。つい今通り過ぎたばかりの空き教室から、何かが廊下の真ん中へと転がっていくのが見えた。


「センセー?」

「渡り廊下んとこまで先行ってらい」


 ふたりを促し、生島は歩き出す。ころころと転がったそれは赤いボールだった。窓の下の壁に当たり、ぽんと弾かれて生島の足元まで転がってくる。


 「誰や、出しっぱなしにして……」


 からり。 


 刹那、空き教室の扉が開く。何の物音も気配もしなかったが、誰かが中で遊んでいたらしい。たしなめようとして、一歩踏み出す。すると、口を開けた扉の奥から、廊下に長く影が伸びた。廊下の反対まで届く、真っ黒なそれが酷く異様なものに思えて、彼は足を止めた。


「……なあ、誰かいんのか?」


 影は応えない。ただ長く伸びて、じわりじわりと廊下を黒く染めている。


「おい」


 息を吸い込む。6月だというのに酷く冷たい空気が肺の熱を奪っていった。


「……返事しらい」


 ぺたり


 湿った足音とともに、影が伸びる。教室にいる何かが、一歩進み出たのだと分かった。


 ぺたり。


 更に影が揺れる。

 目付きが悪く背が高い生島は、児童たちに怖がられている自覚があった。だから恐らく、教室の中の子どもは、怯えて出てこられないのだろう。そう自分に言い聞かせ、彼は努めて優しい声音で語りかける。 


「怒ってねえから、な?」


 ここ数日雨など降っていないのに、湿った土の臭いが鼻を突いた。教室の中から漂っているのだと直感した。

 理解が出来ない。現状に対する混乱の底から、確かに沸き上がってくる原始的な恐怖があった。


─何ビビってんだ。


 そんな自分に苛立ち、生島は大股で前進しようとする。そのつま先が転がった赤いボールを蹴り上げて、思わず足元に視線が移った。


 てん、てん、てん


 ボールが床を跳ねる音がする。しかし、足元に赤はない。影も形も。そして再び顔を上げると、教室の扉は閉められていた。

 少しの躊躇いの末に思い切り扉を開いて中を覗いたが、すべての備品が片付けられがらんどうになったそこに、人の影はなかった。

 



 

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