ねむれ、ふるさと
伊瀬谷照
第1話
ふるさとは、うつくしい村でした。
高く広がる空、すべてを呑み込むような深い緑の森、空を裂く鳥の声、秋に燃え盛る木の葉、夜を歩む蛍、ささやかな人々の営み。
しかし、自然とは決して人を包み込む母ではありません。時に風雨の龍となって、時に暴れる獣の牙となって、時には押し寄せる土の壁となって、我々に襲いかかりました。
これは、我々を恨んでいるのではない。
祖父を押し流した川に手をさらして、祖母が口にした言葉をよく覚えています。
ただ、そこにあるだけ。
雨が降れば溢れ、降らねば干上がる。
そこに憎しみも、恨みもない。
あの山は、優しく、温かく、荒々しく、恐ろしく、そしてうつくしかった、
しかし当時の私は若く、ままならぬものに命を握られるような暮らしに耐えきれなかったのです。15の頃に山を降り、麓の町から出て、仙台の小さな会社に勤めました。
故郷の強い訛りをからかわれ、習慣の違いを指摘されるたび、私はそれを強く恥じ、故郷の記憶を胸に封じるようになりました。
順調に成長した会社は、金沢、名古屋、福岡、そして横浜と、各地の大都市に支社を構えるようになり、私も転勤を繰り返したことを覚えています。
スモッグで霞む空に伸びる建物たち、あちこちに漂う煙草の煙、排水で淀んだ川、分厚い給料袋、鮮やかに着飾った女たちが待つキャバレー、輸入物のスーツ、ゴルフクラブの会員証、毎日のように振る舞われる酒─人が産み出した毒と蜜が、私の身体を浸していきました。
都会は騒がしく、華やかで、息をつく間もないほど忙しく楽しかった。
けれど、私の骨の随、その奥の奥には、いつまでもあの村がありました。
ある晩、夢を見たのです。私はまだ幼く、囲炉裏の前に座り、川魚を串を刺しているところでした。はてここはどこかと辺りを見回すと、赤子を背負いながら、前屈みになって野菜を切る女の背中がありました。
そこで私はようやく、そこが自分の生家であること、目の前にいるのが故郷を出て以来会うことのなかった母と、2歳になる前に肺炎で命を落とした妹だと気がついたのです。
はっと立ち上がり、私は転がるように走って、母の足にしがみつきました。
『ん?なした?』
見上げた母の顔は、鍋から立ち込める湯気で殆ど見えませんでした。懐かしい味噌と醤油のの匂いが鼻をくすぐったのを覚えています。
『いま芋煮作ってっから。危ねから外で遊んできらい』
とん、とん、とん、とん。
人参を切る包丁の音は、心音のように規則正しく、心地の良いものでした。
『……やんた(嫌だ)』
『なにや、おっかね夢でも見たか?』
母が笑うのも構わず、私はじっとその足にしがみついていました。
しばらく、炭の匂いがする割烹着の裾に顔を埋めたままにしていると、視界の隅で何かが動くのが分かったのです。
それは、外に続く建て付けの悪い引き戸でした。
『……?』
狭い視界の中、可愛らしい花柄を散らしたえんじ色のもんぺだけがはっきりと見えました。
『おかえり』
「ふんふんふーん」
土の匂いが漂う鬱蒼とした山の中、ひとりの少女が雑草に覆われた砂利道を歩いていた。
身長はおよそ170センチ弱、腰まで伸びるソバージュヘア、黄色の生地に白襟が映えるフィットアンドフレアワンピース、そしてそのファッションに不釣り合いなスマホショルダー。
ちぐはぐな出で立ちの少女は、鼻歌交じりに山の中を進んでいく。
腕に止まったカナブンを指で弾いたところで、首から下げたスマホから軽快な電子音が鳴り響いた。途端、身長に相反し幼いその顔に不機嫌な表情が浮かぶ。
「……うーわ」
一旦無視を決め込もうとして、しかしそうすると後で更に面倒なことになると分かっている彼女は、渋々スマホを耳に当てた。
「は〜い、もしもしぃ」
『
鋭い声に耳を貫かれ、思わず肩を竦める。
「もぉ、せずね(うるさい)っちゃなあ」
『お前、今日こそ学校来るっつったべや』
電話口から響くのは、「聞くだけで神経質だと分かる」と周囲の人間に形容される、尖った若い男の声だった。
「行けたら行くって言ったもーん」
電話の相手は、少女─千種が通う学校の教師だった。彼女が通うのはひとつの学年が15人程度の少人数の学校であるため、こうして生徒一人ひとりにおせっかいを焼く教師もいるのだ。
『今どこさ居んだ?家は出たってお前の兄貴が言ってたど』
「うぇー、兄ちゃんにも電話したの?」
『姉ちゃんにもしてやっか?』
「やんたやんた(嫌だ)!絶対殺される!」
『なあが学校やんたなら最悪構わねから、とりあえず顔だけでも出せ。色々聞きてえことも……』
千種は無言で電話を切った。ついでに、スマホをサイレントマナーモードにしておく。
「はいはーい、おせっかいどうも」
苛立ちを振り払うように歩調を速める。
学校を休んで当てもなく散歩をするのが、彼女の日課のようなものだった。
歩くこと10分ほど、道の端にあるものを見つけた千種は足を止める。
それは、蔦に覆われ、色褪せ、傾いた長方形の看板だった。文字は掠れ切っているが、辛うじて「上」という一字が読み取れる。「この先直進
延々と流れるメッセージを指でサッと払いつつ、千種はスマホのカメラアプリでその看板を撮影した。
今日の散歩の目的地は、かつてこの道の奥にあったという旧集落の跡地だ。険しい山道を登る必要があること、村自体が廃虚ばかりで危険ということで立ち入りを禁じられているが、学校の無断欠席を繰り返す少女にとって、規則を破ることへの抵抗は薄かった。
50分ほど歩いたところで、道の真ん中に放置されている軽トラックが見えてくる。かつて同じように廃村を探検した兄によると、ここを過ぎれば上見郷村はすぐそこだという。
千種は足を止め、軽トラックを観察した。フロントガラスは失われ、タイヤも完全に空気が抜けている。更にナンバープレートまで消えてしまっているそれを迎えに来る主はいないのだろう。
「なんか良い雰囲気〜」
ボンネットを歩くムカデを掴んで放り投げ、千種はスマホを操作する。生き生きとしたムカデは、主を失った廃車の哀愁とは些か相性が悪いように思ったからだ。
画面上部にちらつく兄からのメッセージを無視し、カメラを起動する。液晶に地面と己の爪先が表示され、軽トラックにカメラを向けようとした彼女は、あることに気が付いた。
赤。
砂利道に、鮮烈な色が浮かんでいる。液晶の中、踏み固められた地面の上に、小さな手袋が片方落ちていた。
「え?」
液晶から視線を外し、直接地面に目を落とす。
そこには、既に人々が通った痕跡を失いつつある、雑草だらけの道だけがあった。手袋は、存在しない。画面の中にだけ浮かび上がる、赤。
「なにっ、なになにっ……」
太鼓のような心音が頭に響く。
得体のしれない何かが足元にあるような気がして、千種は後ずさった。
「は?何?バグ……?」
カメラを再起動する。しかし、ぽつんと落ちた赤は消えることがない。毛玉が目立つ、少し親指の先がほつれた、使い古されたであろうミトン手袋。家のタンスに入っているような、ありふれたそれ。
映ったのが黒い長髪の幽霊ならば、千種は悲鳴をあげて逃げ出しただろう。しかしただの手袋の存在はあまりにも不可解で、不気味で、同時に害がないようにも思えて、千種に次の行動を躊躇させた。
「ねえ」
彼女以外誰もいないはずの山道の空気を、高く掠れた声が震わせる。
ハッと顔を上げた視界には、ただ村落に続くという道だけが伸びている。しかし、居る、と思った。
目には見えない何かが、そこに立って、意思を持って、千種をじっと見つめている。
「……」
彼女は、震える手でスマホのカメラをそちらに向けた。
「ねえ」
「おかえり」
悲鳴と共に、スマホが地面を転がった。
ねむれ、ふるさと 伊瀬谷照 @yume_whale
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