第8話


 誉緖の様子がおかしい。

 大部屋に集まり、電子機器を回収し、点呼を取ったあたりで、彼は再び「帰らないと」と大きな声で騒ぎ始めた。

 こういった場面、普段なら必ず従兄弟たちの纏め役となる青年がいるのだが、彼は隣市に出かけておりまだ戻っていない。

 誉緖に引きずられるように混乱か広がる中、長兄が「ここは俺が見ておくから誉緖を爺様のところに連れて行け」というので、徇助は弟の手を引いて、暗幕で窓が隙間なく塞がれた廊下を歩いていた。


「徇助、早く帰らないと」

「分かったから、爺様んとこ行ってからな」

「でも、こんな待たせてんのに」


 社会人といえど、16歳の少年の手には余る事態。しかし、弟を放って置くわけにもいかず、徇助は不安な気持ちを振り払うように歩調を早めた。


「おめえには、話しておかねえとなあ」


 ややあって、彼は足を止める。普段使われていない物置から、聞き慣れた曽祖父の声がしたのだ。


「何が起きているんですか?」


 同じ部屋からは、明火の声も聞こえてくる。


「誉緖、コレが終わったら帰してやっから、静かにしてらいね」

「ほんと?」

「ほんとや、ほんと」


 弟を宥め、徇助は足音を殺して、ぴたりと閉まった襖の前にしゃがみ込む。そして、豪奢な錦絵が描かれたそれにそっと耳をつけた。





「つっても、俺も一切合切知ってるわけでねえ。俺が生きてる間、あれが町さ出たのは2回だけだからな」


 明火が連れてこられたのは、客間でも、居間でも、夏弍の私室でもない、小さな物置部屋だった。子どもたちの古い衣類や靴、足の折れたこたつテーブル、釣り竿、機種変更された型落ちのスマホなど、あらゆる不用品が所狭しと並んでいる。

 数十人が同じ敷地に住んでいると、当然不用品や物の破損も多い。そのため、この物置は何度片付けても、数ヶ月も経てばすぐ物で満たされるのが常だった。

 

 


「この辺りで、一番高え山があるべ?」

「くらきさま、ですよね?」

「んだ」


 座貴山くらきやま、或いはおくらさま、くらきさま─そう呼ばれるかの山と、そこに存在する大沼、通称「弥沼」は、この地に伝わる信仰の象徴である。

 山頂に建立された座貴神社は、代々座貴の山神を崇め、奉り、町の住民のほぼすべてが、その氏子として名を連ねている。


「日本ってのは平地が少ねえからな。皆限りある土地を取り合って来た。俺らが今この盆地さ住んでんのは、ご先祖様のおかげや。そうでねえもんは、この近くの山で暮らしてたんだ」


 しかし安住の地は、現在弥沼町と呼ばれる、この山間の盆地だけだった。

 山中に住む人々は、幾度も山崩れや増水、大雪に見舞われ、ときに故郷を失うことすらあったのだ。それでも、遠くに行こうと言い出す者は少なかった。


「くらきさまは嫉妬深え神でなあ。仕方ねえって理由でも、土地から氏子が離れてくのを許してけれねんだ。んだから、離れようとするモンを、引き留めてくる。もし離れても、帰らせようとする。それが、お迎えさんの正体なんだと」


 曰く、この辺りの山では、雪の如く、落ち葉のごとく、「過去」が降り積もる。やがてそれは土となって、木の葉となって、雨となって、霧となって、残り続ける。


「“過去”は、ただ其処さある、空気みてえなもんだ。たまぁに、昔食ったお母ちゃんの飯の匂いがしたり、昔無くしたもんがころっと出てきたりするだけ、害はねえ。普段はな」


 しかし、人が座貴のお膝元を離れるとき。

 或いは、離れ、離れたその先で、遠いふるさとを思ったとき。

 過去は、その者を迎えに来る。

 父が呼ぶ声、母の手料理の匂い、妹の泣き声、履き古した草履、何度も丈を直した着物、土の温かさ、雨に透ける山荷葉、夜闇の静寂を裂くトラツグミ、ふるさとの思い出の全てが、去った者を求めて彷徨い、取り戻さんと手を伸ばす。


「それが、“お迎えさん”。お迎えが探してるモンが、“帰らず”。お迎えさんは、帰らずにしか正しい姿を見せねえけども、確かにそこさ在る。おめえも話してたべ?」


 土の中から聞こえてきた少女の声。あれが“お迎えさん”だと夏弍は語る。

 ふるさとを離れた者を追い求め彷徨う、降り積もった過去の具現。


「思っていたのと違いますねえ……」

「ん?」

「もっとこう、土地神の成れの果て、みたいな。分かりやすいモンスターかと」


 すると、夏弍はあからさまに顔を顰めた。


「おめえもやってんのか。あの訳分かんねゲーム」

「けっこう面白いんですよ?」


 三島家では、因習蔓延る寒村を舞台にしたとあるホラーゲームが大流行している。プレイヤースキルの問題でまともにプレイ出来るのは徇助と明火だけであり、続きをするとなると皆が集まってテレビを見つめ、わあわあと騒ぎ立てるのがここ最近の日常だった。


「それで、そのお迎えさんと、千種さんや雪乃さんの行方不明がどう関係するんですか?」

「お迎えさんは、帰らずを探して人里をうろらうろらすっけどな、人間の区別はまともにつかねえ。んだから、その辺の奴を目当てのモンと勘違いして、帰るべしって声かけてくんだ」


 そして声をかけられた者、特に年若い者は“お迎えさん”が持つ記憶の影響を強く受けてしまうのだという。そして、自分こそが“お迎えさん”の探し求める“帰らず”であると信じ、呼ばれるがままにふらふらと「帰って」しまうのだそうだ。


「若えのは、まだ自分の過去が少ねからな。お迎えさんが抱えてる、何十年分の記憶だとか、“帰りてえ”って気持ちさ呑まれちまう」

「ということは……逆に言うと、幼い方は“帰らず”になりにくいということですか?物心つく前に山を去った方に、そこをふるさとと呼べるだけの過去も、郷愁も存在しないでしょうし」

「呑み込みが早えな」

「あなたがこんな嘘をつく必要性はありませんから、もちろん信じますよ。それに、僕こう見えても弁護士先生なので、理解力には自信があるんです」


 明火は、内に微かに燻る不安を振り払うように、威勢良く宣言した。

 暗い土の下、聞こえてきたのは確かに聞き覚えのない少女の声、香ってきたのは、湿気た土の匂い。そのはずだった。しかし、ほんの一瞬、錯覚してしまった。

 古い木造アパート、タバコと黴の匂いが染みついた居間でぼんやりテレビを見る女がいる。女は振り返る。それは母親だった。彼女は煙を吐いて軽く手を上げた。「おかえり」と。


「おい」


 目の前で手を叩かれ、ハッと我に返った。


「あんたも当てられてんな」

「すみません……なぜか、昔のことを思い出してしまって」

「それが当てられたってことや。自分がお迎えさんだと勘違いして、ありもしねえ記憶を懐かしんだり、わせって(忘れて)た自分の過去を急に思い出したりな」


 故に、お迎えさんがやって来たとき、町の人間は徹底的に身を潜め、若者や子どもたちを家の中に隠す。

 お迎えさんに見つからないよう、窓を閉め、暗幕を張る。

 お迎えさんは目に見えないが、鏡を介してその姿を捉えられることがある。その為、鏡、それに準ずるものを暗幕で隠す。時代が下ると、「カメラに映るかもしれない」という懸念が生まれたため、電子機器の回収が「決まり事」に盛り込まれるようになった。


 「あの、帰らずと間違えられて消えてしまった方は、どうなるんですか?」

「……どうにもなんね」


 夏弍は眉間に皺を寄せ、僅かな沈黙を置き、しかし端的に事実を伝えた。


「三島の記録には、お迎えさんが降りてきた年のこともよぉく書かれてっけどな。お迎えさんさ当てられて消えたモンが帰ってきたって話は一個もねえ」

「……そんな」

「俺らさ出来んのは、お迎えさんが帰らずを見つけるまで、身ぃ潜めっことだけや。そのうち、帰らずは引き寄せられて町さ現れっはずだからな」


「いま、町のモンにも連絡回してる。五十路より上の連中は、すぐ話が分かるはずだ。最後にお迎えさんが出たのは、40年前だからな」

「爺様!」


 勢い良く襖が開かれた。そこには、黒い布で包まれたカメラを首から下げた徇助、彼に虚ろな目で手を引かれる誉緖がいた。


「徇助……大部屋さ居ろっつったべや」

「それは分かってっけど、誉緖がおかしいんだって」

「誉緖が?」

「ねえ、早く帰らないと、離して!」


 誉緖は掴まれた腕を引き剥がそうと、徇助の腕に爪を立てる。その目は血走り、口からは訛りのない言葉が紡がれていた。


「いって……!」

「誉緖くん、落ち着いて!」


 明火は誉緖を後ろから羽交い締めにしたが、その力は凄まじく、拘束は容易く解かれてしまう。転がるように走り出したその腕を捉えたのは夏弍だった。


「離せ!おい、離せって!」

「……くそ」


 夏弍は曾孫を床に押さえつけ、小さく悪態をついた。


「徇、おやんつぁん(父親)呼んでこい!」

「わ、分かった」


 徇助は頷き、廊下を走り出す。

 なおも暴れる誉緖の腕を押さえつつ、明火は夏弍を見上げた。


「これも当てられた状態ですか?」


 長い沈黙の末、低い声が落ちる。


「……ここまでになっと、もう野さ離すしかねえかもしれねな」

「夏弍さん!」


 言わんとしてることを察した明火は、彼を一喝する。


「あんたの曾孫でしょうが!」


 ポーチの紐を引き寄せ、スマホを掴む。夏弍の制止も聞かず、彼は電話帳を開き、真っ先に目に飛び込んだ名前をタップした。


「おい、勝手なことすんでねえガキが!」

「やかましい!黙っとれ!達観したようなこと言う前にやることやりィ!」


 液晶に表示された名は、「生島くん」。

 今この瞬間も、教え子を探すために東奔西走しているであろう男の名前だった。

 


 




  


 

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