第32話 やべー奴と催眠アプリ 下
席を立ちレジへと向かう。
その手には会計ピッタリの現金。
普段は電子決済派の美琴ではあるが、今日は丁度の金額を現金で支払う事にした。
一工程でも早くレジから離れて店を飛び出す為には最低限、この位の事はしておかなければならない。
そしてレジの前に立ち、会計の為に伝票を渡すという最低限のコミュニケーションを取る為に警戒しながら店員へと意識を向けたところで……確信した。
(……多分、本当にそういう事なんだ)
その店主の目付きは異様だった。
他の虚ろな目をした客の物とはまた別物。
誰かに悪意を向けるという、純粋に異様な目付きだ。
そして次の瞬間、店員の男がレジカウンターの下から何かを取り出すような動作と共に声を上げる。
「動くな」
その声と共に一体何を出されたのかは目視できていない。
(……警戒してなきゃ一発だこれ!)
目元にあるのは伝票が挟まれた板。
これで咄嗟に目元を隠した。
そして。
(完全にクロ! 嘘でしょマジだった!?)
内心そう叫ぶと共に、目線を反らしつつ伝票と現金をレジカウンターに叩きつけ、勢いよく店の外目掛けて走り出す。
幸いレジから出入口までは目と鼻の先だ。
だが再び店員の男の声が耳に届く。
「その女を捕まえろ」
男がそう口にすると、出入り口付近に置かれた丸椅子に座っていた順番待ちの男がゆっくりと立ち上がり、入り口の扉の前に割って入って来る。
それだけじゃない。
店の中のあらゆるところから、椅子から立ち上がる様な物音が聞こえた。
それを認識して、すっと血の気が引いた。
(……あ、これ本当に洒落にならない奴だ)
今この瞬間に全員に画面を見せた訳ではないだろう。
つまり……今この空間に居る客は全員、あの店員の男の声だけで操られる人形みたいになっている。
……本当に言葉の通り、自分を捕まえる為に動く。
そして、実際動かれた。
「ちょ、離せ! 触んなって!」
相手が正面の男一人だけだったらどうにかなったかもしれない。
だけど自分が紆余曲折有って身に付けているような護身術はあくまで緊急時に身を守る為の物であって、一対一の真正面から障害となる相手を殴り倒せるかどうかは怪しくて。
そして四方八方から数で押されるのであれば、手の打ちようがない。
まるでゾンビ映画でゾンビに囲まれているような有様だ。
「……くそッ」
周りの客に手足を掴まれ完全に身動きが取れなくなり、そのままテーブルに押さえつけられる。
完全に無防備。
だがそれ以上の暴行を加えられる事も無く、本当に指示通り捕まえているという様子だった。
……だけどそれ以上の事をしないのは指示されている客だけで。
「そのピンポイントな緊急回避はこれの存在を知っていなければできない。そしてその回避行動自体もこれを使われるかもしれないという警戒が無ければできない……となるとお前もこのアプリを所持しているか、所持している人間が身近に居るか。何にせよ厄介なお客様だ」
言いながら一旦店の外に出た男は外で待ちの客に声をかけ……そして出入口の鍵を閉めてカーテンを降ろして戻って来る。
そしてこちらの顔に向けてスマホの画面を見せつけてきた。
ぐにゃぐにゃとしたカラフルな画像。
「とりあえずそうだな……動くな」
そう言われた瞬間、体が急に重くなった。
「おい、お前らはもう離れても良い。食事を続けて玄関開け直すのを待て」
そんな指示と共に美琴を拘束していた者も離れ自由になったが……それでも体が全く動かない。
「なに……しやがる」
「長い文脈の催眠をかけるなら、まずはその下準備が必要だろう。うごくなの四文字はその下準備にはもってこいだとは思わねえか?」
「……ッ」
「おいおいそんな怯えた表情するなって。これ以上の手荒な真似はしないさ。何せ俺はまだこの催眠アプリで何がどこまでできるのかを調べてる段階でな。今は極力穏便に事を済ませてるんだ。警察なんかが動かない程度にはな。どっかの馬鹿強盗みたいに自分の欲で好き放題してた奴とは違う」
「穏便……どこがだよ」
「穏便だろう。俺は今好き放題にできる状況でお前に触れてもいないんだから。良かったな、俺が考え無しの馬鹿じゃなくて」
そう言って笑う男は一拍空けてから言う。
「ま、そんな訳で済ませる事はさっさと済ませよう。いくつかの事を穏便にな」
そう言って再び催眠アプリの画面をこちらに見せてくる。
「これと同じ催眠アプリを持っている奴の情報を教えろ」
「……そんなのを持ってる奴なんていない」
そんな言葉を無理矢理引きずり出された。
そしてそんな自分の言葉を聞いて少し安堵する。
(……コイツと陽向の件は明らかに別件。良かった……同じだったら、陽向が危なかった)
男がどうしてそんな事を聞いたのかは大体察しが付いていて、その察した内容をそのまま男が言う。
「あ? 知らねえ……のか。サイレンススティールの噂位は聞いた事があるってところか? まあいい。同じ活動圏に二人もこんな魔法見てえな力を持ってる奴は要らねえと思ったが、そもそもいねえなら面倒な事をやらずに済む」
……この男は同じ催眠アプリを持っている誰かを、取り払うべき障害だと考えている。
もし自分が陽向の情報を話すような事が有って、その排除にこの男が動いたとすれば。
本当に最悪な事になりかねなかった。
それが回避された事だけは、本当に良かったと思う。
その事だけは。
「ってなるとお前に聞かなきゃならねえ事も特にねえんだよな。そしてやれる事も無い。穏便に済ませると決めている以上……色々と勿体ないが」
一瞬気色悪い視線を向けた後、男は言う。
「自分で引いたラインを自分から越えちまうと、タガが外れかねねえって事を俺は知ってるんだ。良かったな、俺が理知的な男でよ」
(理知的な奴はそもそもこんなライン越えの事しねえよ!)
この男を見た後だと、あの柴崎ですら理知的に見えてくる。
そして男は思考を巡らせるように独り言を呟く。
「じゃあコイツも他の奴らみたいに……いや、噂聞いた事があるだけでもああいう動きができる奴をコイツらみたいな人形にすると、意図せず同類を引っ張ってきかねないな。そしてコイツが知らないだけでその同類が催眠アプリを持っていたら最悪だ。コイツの異常から辿られる可能性がある。つまりコイツ自身をこの拠点に関わらせないようにして全部無かった事にする。それが最善ってところか」
そうぶつぶつぶつぶつと呟いた後、男はこちらに向けて言う。
「そんな訳で俺はリスクヘッジが上手な男なんだ。お前は此処に来なかった。そして今後も来る事は無い。そして活動を広げた先で邪魔になる事が有っても困るからな……催眠アプリの事なんて一切忘れて普段通りの生活に戻ってもらう。俺の安全は保たれ、お前は傷付く事なく普通の生活へと戻れる。WIN-WINな選択って訳だな」
「こんな事になって私にWINな要素ねえだろ……ってちょっと待てスマホ近づけんな近づけんな! 催眠アプリの事だけ忘れるって本当にそんな都合よくうまいこと……や、やめ……ッ」
「大丈夫さ。多分ね……それじゃあさようなら」
◇◆◇
「……いや怖いって。全然思い出せないんだけど」
美琴はバイト先の最寄り駅のホームに設置されたベンチに腰掛け首を傾げる。
バイト終わりに晩御飯を食べに行った筈だ。
それなのに気がつけば此処でこうして座っていた。
時刻はあれから1時間後。
そして何かを食べた後なのか満腹感はある。
つまりどこかで食事をして、帰宅する為に電車を待っていたとう事になる訳だが……その間の記憶がごっそりと消えている。
「……おいおい何これ。何か脳の病気か?」
普通に活動していた筈の直近一時間の記憶がごっそり消えているなんてどう考えても異常な訳で、そしてその異常性を現実的に紐解くとしたら脳の異常と捉えるのが正解な気がした。
(なんか知らないけど、私これ病院とか行った方が良い感じか? えぇ……)
そんな風に困惑していた時だった。
「やあ、また会ったね」
「げ、柴崎。なんで此処に」
バイト終わりであろう柴崎が歩み寄って来る。
「バイト先の最寄り駅だからね。そりゃ使うさ。隣いいかい?」
「嫌だ」
「随分と嫌われちゃってるね。連絡先も交換してくれないし」
そう言ってこちらと一つ空けた席に座る。
「それほぼ隣でしょ」
「せめてこの位の距離感ではありたい」
「私はもうちょっと距離を置きたいんだけど」
「ところで赤羽」
「コイツ強引に進めやがった……で、なに?」
「何か思い詰めた様子だったからどうしたのかと」
「あー何でもねえよ何でも」
全然何ともなくはないのだが、柴崎に弱みを握られるのは何か嫌だから……というより身の危険を感じるからそういう事にしておく。
「そうかい? ……なんて流すのも何だか違う気がしてきたよ」
そう言って立ち上がった柴崎は美琴の前に立つ。
「お、おい……せめての距離感は守れって」
「言う事を言ったら離れるさ」
そう言って柴崎は言う。
「僕の方からは踏み込まないとは言ったけど、あの時どころか今に至るまでそんな様子だったら流石に無視はできない……キミは催眠アプリ絡みで何か問題を抱えている。そうだろう?」
そんな風に決めつける言葉を向けてくる柴崎。
そして茶化すような空気でもなく、真剣にそう問いかけてきているのを感じ取れた。
だが……内容から真剣さが欠落している。
「えっと、柴崎……なに? 催眠アプリって。アンタまたヤバイ事でも始めた?」
「なんだって……散々話しただろう、バイト先で」
「いや、お前とそんな話……いや、ちょっと待って。なんかその辺も虫食いみたいになってて思い出せない」
「その辺も?」
「ん? ああ、なんか知らないけどここ一時間程の記憶が消し飛んでて……って、いやいや、何でもない」
(……最悪だ。弱みみてえな事勢いで話しちゃった)
思わず頭を抱えそうになる美琴に柴崎は聞いて来る。
「……バイト先で僕と話した事自体は覚えているかい?」
「そりゃそうでしょ。アンタみたいなインパクト強い奴との会話なんて忘れる訳が……いやでも、え? いやいや話して無いでしょ催眠アプリの話なんて……ほんと半端に色々抜けてる」
思わず小さく溜息を吐いてから、こんな奴に聞きたくはないけど聞いてみる。
「私これ医者に頭見て貰った方がいいと思う?」
「もし今後も続く様ならそれをお勧めするけど……多分もうそういう事は起きないと思う」
「は? 起きないってなんでそんな事……」
「まあ僕は医者じゃないけど、多分そうだ」
そして、と柴崎は一拍空けてから言う。
「抜け落ちた記憶は、きっとそう遠くない内に僕が戻すよ」
「……は?」
首を傾げる美琴をよそに、再び一つ離れた席に座る柴崎。
「えっと……アンタカウンセラーになるとか言ってたけど、私利用しないからね?」
「そういう事じゃない」
「えっと、じゃあ何?」
「全部思い出した頃に分かるんじゃないかな」
「……」
(……相変わらずやべー奴の雰囲気がすげえなコイツ)
自分の様な似非やべー奴とは違う
(いや、でも……私はコイツよりヤバイ奴を知っているような……)
一瞬何故かそう思ったが、流石にそれはないと思考を掻き消す。
自分が会った事のある人間で一番やべー奴は柴崎彰だ。
それはきっと更新されない。
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