今日から私はあなたのもの

ようよう

第1話

「今日、いつもの場所ね」


 すれ違いざま、感情のこもっていない平坦な声に耳元でそう囁かれる。


 それは私にとっての日常で何も特別なことではない。

 それなのに心臓は特別なことがあるかのようにドキドキと音を鳴らし、私の期待を煽る。


 顔が火照って熱くなっていくのがわかる。周りには友達がいるのだからできるだけ顔には出さないようにと思っても、余計に顔が熱くなっていくばかりで治まる気配がない。


 もう何度も繰り返したはずなのに、あの場所で行われる日常に私は未だに恥ずかしさを覚え慣れることができずにいた。


 始まりは単なる気まぐれだったのだと思う。


 委員会で会議室に残っていた私は、たまたま一緒に残っていた朝凪あさなぎさんに声をかけた。

 名前は知らない。知っているのは制服のリボンの色から同学年であるということと、朝凪さんと呼ばれているということだけだ。


 どこのクラスかもわからない彼女と二人きりでいるというのが気まずくなった私は、適当な話題を振って沈黙だけは避けようと思った。


「あ、あの、えーと…今日、いい天気ですねー……」

「あなたにとってこれがいい天気と呼べるものであるなら、そうなのかもね」


 呆れたような冷たい声で返される。


 私は馬鹿だと思う。こんな時に話す話題としてあまりにありきたりすぎるし、何より今日はいい天気の「い」の字もないほど大荒れの天気で、大雨注意報が出されるくらいだ。

 私にとってのいい天気は皆とさほど変わらないはずで、こんなのは私の理想とするいい天気とは日本とブラジルくらいかけ離れている。


 自分でも呆れるくらい的外れなことを言っているのだから、どこの誰かも知らない人にそんなことを言われた朝凪さんは呆れてため息も出ないだろう。


 気まずい空気を何とかしようと試みた結果、かえって空気が重くなったような気がしていたたまれない。


 すると先ほどとは打って変わって優しさに包まれたような声が私の耳に届いた。


「あなた、名前は?」

「あ、えっと、小山内おさない千尋ちひろです」

「小山内さん、あなた面白い人ね」


 優しく微笑んだ朝凪さんは私に興味を持ったのか立ち上がり、椅子に座っている私の方へと寄ってきた。

 私の失敗から生まれたとは思えない展開にドギマギしながら、動けば当たってしまいそうなほどに近づいてきた美しい容姿に思わず息を呑んだ。


「あなた、キスはしたことある?」


 優しい笑顔が張り付いた清楚な見た目から何の前触れもなく発せられた彼女の言葉に、私は動揺を隠せなかった。


「え、どうしてそんなことを…?」

「なんとなくよ」


 なんとなくという割に随分と楽しそうに見える朝凪さんは、にこにこと含みのありそうな笑顔を私に向けて回答を待っている。

 なんだか嫌な予感がしながらも、嘘を言っても仕方がないから正直に答える。


「したことないですけど…」

「そう、したことないの。じゃあ、教えてあげる——」

「ん……っ!?」


 そう言って朝凪さんは私の顎を持ち上げ容赦なく唇を奪った。

 柔らかな感触が私の唇に優しく押し付けられ、息ができなくなる。


 こうして私のファーストキスは名字しか知らない美しい女の子にあっけなく奪われてしまった。


 見知らぬ女の子に初めてのキスを奪われたというのに、なぜだか私は嫌な気持ちにはならなかった。むしろもっとしていたいと思う。

 けれど、教えてあげると言われて重ねられた唇は、私がキスというものを味わう間もなく離されてれてしまった。


「じゃあ小山内さん、またしましょうね」


 頭の整理が追い付かずあっけにとられていると、朝凪さんは何事もなかったかのように笑顔でそう言って会議室から出て行ってしまった。


 それからというもの、今日のように廊下ですれ違ってはこっそりと呼び出され、あの日のように朝凪さんによって私の唇が奪われるという日々が続いた。


 これが性的欲求と呼べるかはわからないが、きっと私は彼女の性欲の発散に使われるおもちゃでしかないのだと思う。

 それでも私はしだいに朝凪さんとキスをすることが癖になり、放課後のこの時間が楽しみになりつつあった。それは呼び出されなかった日はテンションが下がり、勉強も手につかなくなるほどに。


 キス一つで落とされる私ってちょろすぎない?


 そう思いながら、今日も私は人気ひとけが少なくなってきた校舎の中ドキドキとウキウキで会議室へと向かっている。

 周りには誰もいないことを確認して会議室に入ると、いつものように行儀悪く机に座った朝凪さんが不敵な笑みを浮かべながら待っていた。

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