第1話 カーブミラーの怪⑩

「ちょっと日向葵!」


 焦った百合香が引き留めようとしたが、少し振り返って視線で「大丈夫」だと伝えて、日向葵は女子生徒のほうに歩いていった。

 そして、ブレザーのポケットから取り出したものを彼女に差し出す。

 それは、スマホサイズの鏡だった。百合香とお揃いで買った、日向葵の必須アイテムだ。


「これ、よかったらどうぞ。全身は映せないけど、うまくやれば上半身のチェックはできるから! でもさ、私ら大事なの顔周りじゃん? 何なら前髪だけ? だから……今度からこれ、使いなよ」


 正直言って、異形と成り果てた彼女に話しかけるのは怖かった。言葉が通じるかもわからないし、何かされるのではないかという恐怖がある。

 だが、それでも彼女に優しくしたかったのだ。

 彼女が百合香や日向葵を、彼女なりの善意で助けてくれようとしたように。

 何より、自分と同じ年頃の女の子がずっとカーブミラーで身だしなみを整えているなんて、悲しかった。彼女がもし手鏡を持っていたら事故に遭わなかったかもしれないと思うと、なおさら。


「あ……」


 言葉は伝わったのか、女子生徒はそっと手を伸ばして日向葵から鏡を受け取った。それから蓋を開け、自身の姿を映してみる。

 

「え、あっ……!」


 鏡に自分の姿を映し、手櫛で髪を整えるような仕草をしているうちに、少しずつ彼女の姿が戻っていくのがわかった。

 悍ましい土気色をした人ならざる者の姿から、日向葵たちと同じ紺色ブレザーを身に着けた高校生の姿に。

 しばらく経つと、目の前にいるのはどこにでもいる普通の高校生の女の子になっていた。


『ありがとう……大事にする』

「うん」


 彼女は日向葵を見つめると、はにかむように微笑んだ。そんな表情を浮かべると、彼女が自分と何も変わらないのだとわかる。


『連れてこられた少女から鏡を受け取った女子生徒は、生前の姿に戻っていた。自分の姿を思い出せたからだろう。もしくは、身だしなみを整えたいという、最期に残った思いが昇華したからか。この世に縛るものがなくなった彼女は、光の中へと歩き出す』


 麦太郎の語りに導かれるようにして、彼女はゆっくりと歩き出した。道の先には、光がある。

 成仏というものなのか。わからないが、彼女が行く先が良い場所であってほしいと日向葵は願う。


「女子生徒がいなくなったあと、彼女によって異空間へと引きずり込まれていた少女たちも、無事にもとの世界へと帰ってきたのだった──これにて、この話はおしまい」

「え……」


 ずっと遠くで聞こえていた麦太郎の声が近くで聞こえたかと思うと、いつの間にか日向葵たちはリサイクル業者の敷地にいた。鏡に引きずりこまれたときのように空間を移動したという感覚すらなく、まるで霧が晴れるように周囲の景色が変わっていた。


「私たち、帰ってこられたの?」

「みたいだね……百合香、よかった」


 百合香と日向葵はお互いの姿を認めると、確かめ合うような抱き合った。

 異空間で再会できたときも嬉しかったが、あのときはちゃんと二人揃って帰れるのか心配だったのだ。だから、本当の無事が確認できて安堵した。

 気がつけば日は落ちていて、山の中のせいか周囲はすっかり暗い。

 現実に戻ってきても、問題は山積みだった。


「とにかく帰んなきゃだけど……こっからどうしようね」

「そうだよね……ここまでは先輩の原チャで来たんだけど」


 百合香と日向葵は帰りの手段について早くも心配を始め、じっと麦太郎を見る。

 彼女たちの視線の意図に気づいて、彼は慌てて首を振る。


「なに、その視線……三人乗りは無理だって。ここ、東南アジアじゃないんだから」

「えー、でも先輩、女の子乗せてみたかったって言ってたじゃないですか。二人もいっぺんに乗せられてハッピーじゃないですか?」

「親! どっちか親呼びなよ。それか……タクシーか?」


 麦太郎の全力拒否に、日向葵は仕方なくスマホを取り出す。

 時計を見ると十九時半を過ぎていて、そのせいで母からメッセージが何通か来ていた。まだ本格的に心配される時間ではなかったことにほっとしつつ、悩みながら返信する。


「ママ、来てくれるって」

「そっか……ありがとう。でもさぁ……何て言い訳しようか」

「あー……」


 帰りの手段を確保しても、問題の根本解決はできていなかった。

 日向葵はいいとして、難しいのは百合香だ。正直に言っても絶対に信じてもらえないし、嘘をつくにしてもどんな嘘をついたらいいのかすぐには思いつかない。〝嘘も方便〟のプロも、今回ばかりはお手上げらしい。

 

「それならさ、冒険してたってことにしたらいいんじゃない? ほら、UFO探してたとか。何か、学校で噂が出回ってて気になって、怪しい光を追ってこの山まで来ちゃってた、とか……いや、だめか」


 日向葵と百合香が困っているのを見かねてか、麦太郎が助け舟を出すように言った。

 だが、自信がなかったのかだんだん声が小さくなり、最後は独り言のようになった。

 しかし、日向葵と百合香は顔を見合わせて、確認するように頷き合う。


「それでいいかも。採用します」

「先輩、ありがとうございます」

「え、そんな理由でいいんだ……じゃ、俺は行くわ」

「あ、そっか。先輩は原チャですもんね」


 麦太郎がヘルメットを被って原付に跨るのを見て、日向葵は少し残念に思った。せっかくなら母の車に乗せてあげたいと思うが、原付までは積むことができない。


「それもあるけど、男が一緒にいるのはまずいだろ。君らが思うより簡単に女子の評判には傷がついちゃうんだ。気をつけなきゃだめだよ」

「いや、それもそうですけど、よく考えたら評判傷つくの先輩のほうかもしれないです。女子高生誘拐の容疑をかけられたりとか」

「君さぁ……感謝の念って持ってる?」


 麦太郎が紳士っぽいことを言ったのに、それを日向葵が台無しにした。今度こそエンジンをかけて彼が走り出そうとしたから、日向葵は慌てて呼び止める。


「都賀先輩! 今回のお礼って……」

「また今度声かけるから! 怪異じまい、手伝えよ! じゃあ」

「あ……」


 彼はそれだけ言うと、原付で走っていってしまった。それを見送って、「怪異じまい……」と日向葵は口の中で唱える。

 その後、少しして日向葵の母の車が到着した。母は深くは事情を聞かず、とにかく家に返さねばと思っているのかすぐに走り出した。

 だから日向葵と百合香もそれに甘えて、黙って車に揺られる。

 だが、ふと百合香が呟いた。


「……私たち、ないものに呼ばれたんだね」

「え?」

「だって近所のあの場所に、カーブミラーなんて今はないじゃない」

「あ……」

「私たち、一体何に自分の姿を映したんだろうね」


 それは、答えの出ない問いだった。

 すべて怪異の仕業と言ってしまえばいいのかもしれないが、その説明のつかなさが恐ろしかった。

 麦太郎が語ったことで、今回の件は〝怪異じまい〟されたはずだ。

 しかし、それで本当に安心なのか。あの怪異はもう現れなくても別の危険が日常にはあるのではないか──そんなことを考えて、背筋が寒くなってしまった。



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