第1話 カーブミラーの怪➃
(どうしようどうしようどうしようどうしよう……これに捕まったら百合香みたいに鏡に引きずり込まれてちゃうの? でも、百合香を助けるためには私も引きずり込まれたほうがいいの? でも、同じ場所に行けるとは限らないし、こっちから働きかける人がいなくなったら詰みかもしれないし……怖い)
一瞬にして、日向葵の脳裏にそんな考えがかけ巡る。
浮かんでは消える泡のような思考の断片は、最後には恐怖に塗りつぶされた。
まさに絶体絶命。恐怖を前にしたら体が動かなくなるというのは本当なのだなと、身をもって知った。
ホラー映画で、怪異に追い詰められた登場人物たちに「何で逃げないの! もたもたしてないで立ち去ればいいじゃん」と思っていたが、自分がその立場になったからこそわかる。
逃げないのではない。逃げられないのだ。
(なんで百合香、悲鳴もあげなかったのって思ったけど……こんなの声、出るわけがない)
体も動かせず、呼吸すらままならなくなって、日向葵は絶望していた。
だが、そのとき。
「──ひとりの少女が、怪異に追い詰められていた」
男性の声が耳に届いた。
別に声を張っているという感じはないのに、不思議と耳に入ってくるという感じだ。
声のしたほうに視線を向けようとしたとき、また彼は語り出す。
「少女は恐怖に震えながらも、怪異から視線をそらさなかった。そして一歩、また一歩と、どうにか体を動かして後退りする」
ああ、なるほど、視線をそらしてはいけないのかと、日向葵は理解した。そして、彼の語りに合わせるようにして後退りする。
だが、日向葵を追うようにして怪異はなおも手を伸ばしてきた。
「少女は叫んだ。『去れ、去れ、去れ!』と。すると、怪異の動きが止まる」
「去れ! 去れ! 去れ!」
伸ばされた怪異の腕の関節がおかしな方向に曲がっているのに気がついてしまい、日向葵は悲鳴のように叫んだ。すると、本当に怪異の動きが止まる。
しかし、それもほんの少しの間だ。
カタカタと折れた首を揺らしながら、なおもカーブミラーから身を乗り出してくる。
それから逃れるように、ずるずると腰が引けながらも後ろに下がる。
「少女は必死に後退った。そして気づく。カーブミラーに自身の姿が映らないところまで逃れれば、怪異に捕まることはないと」
「そっか!」
語りにより、日向葵は理解した。
怪異の様子からして、カーブミラーを起点にしているのだと。つまり、そこに姿が映らなくなれば、捕まえることができなくなるのだと。
「少女は慎重に、決して目をそらさないようにして、鏡面の外へ出ていこうとする。まるでバトミントンやテニスの選手がする後ろツーステップのように」
「はぁ?」
「そのツーステップは徐々に速度を上げ、怪異は追いつくことができない」
「……もうっ!」
語りに無茶苦茶なことを言われた気がしたが、従うしかなかった。日向葵は腰をやや落として、〝一、二〟のリズムで後ろに下がるを繰り返した。
鏡面から逃れるためには、斜め方向に動くことも忘れない。徐々にフレームアウトしていくことを意識して、素早く小刻みに移動した。
「少女が鏡面から出たことがわかると、怪異は追うのをあきらめてカーブミラーの中へと戻っていったのだった──」
男がそう語ると、体を乗り出していた怪異は、ずるずると鏡の中に戻っていった。その顔に何か悔しいような納得いかないような表情が浮かんでいた気がしたが、頭から滴る血で染まっていて、はっきりと読み取ることができなかった。
「……た、助かった……?」
安堵すると同時に、日向葵は緊張が解けてその場にへたり込んだ。だが、周りを見回す余裕が出てきたことで、ようやく声の主のほうに視線を向けられた。
「あ、さっきの」
そこにいたのは、昇降口で話しかけてきた先輩男子だった。
日向葵がへたり込んでいるからか、余計に背が高いように見える。
彼は、緩く波打つ前髪の奥から心配そうにこちらを見ていた。その手にはノートのようなものがあり、彼が先ほどの語り部で間違いないようだ。
彼によって助かったのだとわかって、日向葵は勢いよく立ち上がってにじりよった。
「あの、先輩! 先輩は何か能力者なんですか!?」
「えっ」
「さっきのやつ、先輩の力ですよね? 先輩があのオバケを追い払ってくれたんですよね? すごっ」
「近い、近い」
日向葵がグイグイ近づきすぎたからか、先輩男子はやや呆れたように距離を取ろうとしてきた。
恐怖から解放されたことの落差で自身のテンションがおかしくなっていたことに気づいて、日向葵は適切と思われる距離まで下がった。
「すみません、勢いありすぎました。助けていただいてありがとうございます。私、一年C組の阿部日向葵です」
「あ、助けたとか、そんな大層なことじゃないけど……
日向葵がペコリと頭を下げると、先輩男子──麦太郎も頭だけをクイッと動かし、会釈なのかお辞儀なのかわからない仕草をした。
昇降口で声をかけられたときは、いかにもかっこいいふうなのが胡散臭いと思っていたが、今はこういう人こそ実はすごいのかもしれないと思い始めていた。
「都賀先輩は、霊能者なんですか? さっき、先輩が私やオバケを操ったんですよね?」
「いや、本当、そういうんじゃないって」
日向葵が目を輝かせて尋ねると、麦太郎は困ったように首を振った。謙遜なのか恥じらいなのか、とにかくそういう性格の人なのかと思ったが、どうにも違うらしい。
「俺は、霊と戦ったりはできない。なぜなら怪談師だから。語ることで一時的に退けることができただけで、根本解決はまだしてない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます