第1話 カーブミラーの怪③

 強烈な違和感を覚えて、日向葵は立ち止まった。

 もしかしたら、学校に戻ってさっきの先輩男子に話を聞いたほうがいいのかもしれない。

 そう思ったが、駅はもう目の前のところまでやってきていて、乗るべき電車の時間も迫っている。

 それに、戻ったところでもう彼はいないかもしれないし、大した話も聞けないかもしれない。

 悩んだ末に、日向葵は再び歩きだして駅に向かうことを選んだ。

 あの先輩は何かを知っているのかもしれないが、だから何だというのだろう。

 何となく胡散臭い雰囲気のする彼に、何かを期待できるとは思えない。

 学校に戻って話を聞こうかと一瞬でも考えてしまったのは、日向葵の弱さだ。

 本音を言えば、事件があった現場になど戻りたくない。あのカーブミラーが恐ろしくて、金曜も今日もわざわざ遠回りをして駅に向かったほどなのだから。

 だが、待っていても百合香は帰ってこない。一縷の望みを賭けて送っているメッセージアプリにも、既読すらつかない状態が続いていた。

 だから、このまま時間が経てば経つほど彼女を見つけられなくなってしまうのではないかと考えたら怖くなる。

 大事な親友を失うかもしれない恐怖が化け物に対する怖さよりも上回っていたから、日向葵は自宅方面に向かう電車に乗ることができた。

(百合香はカーブミラーの前を通り過ぎるときに、鏡から出てきたものに掴まれた? ……違う。あのとき、百合香の体はカーブミラーのほうに向いていた)

 電車に揺られながら、何とかあの日のことを思い出そうとしていた。

 恐怖のあまり記憶が曖昧だが、それでもどうにか覚えていることを脳裏に蘇らせようとした。

 カーブミラーから出てきた黒いものが百合香を引きずり込んでいくのは、ほんの一瞬の出来事だった。

 そのほんの一瞬のことを何度も何度もリフレインするうちに、気がつくと降りるべき駅まで来てしまっていた。

 足が重たいが、このままずっと電車に乗っているわけにもいかなくて降りた。降りたからには現場に向かうにも帰宅するにも、とりあえず歩き出すしかない。

 時刻は午後五時半過ぎ。夕暮れにはまだ早いが、空の色味や地面に伸びる影は昼間のものとは違っていた。

 週に三回部活のある日は、今よりもっと遅い時間に帰るのだ。

 そのときは少しも怖さなんて感じないのに、今は怖くてたまらなかった。

 駅から少し歩くと、分かれ道がある。左に進めば遠回りだが家まで帰れる道、まっすぐ進めばいつも使う道──つまり、現場に向かう道だ。


「……よし」

 

 気合いを入れて一歩、また一歩と歩き出す。

 郊外の、山を切り開いた住宅地だから、日没前でも影が濃い。こんなに薄暗い道をいつも歩いていたのかと改めて驚き、恐れながら歩いた。

 この感覚は、子どもの頃に世界には怖いものがあると知ったときの感覚に似ている。

 両親に守られた狭くて安全なところしか知らなかったときは、世界には怖いものなどなかった。

 だが小学校に入学し、子どもだけで学校に行って帰ってこなくてはいけなくなってからは、この世界にはたくさんの危険があるのだと教えられた。

 信号を守らなかったりスピードを出し過ぎたりする車、変質者に痴漢に誘拐犯。

 小さくて無力な子どもには、恐れて怯えて、どうか出会いませんようにと願うことしかできないもの。

 そういったものがあると知ってからの世界は、ひどく恐ろしく感じられたものだ。

 日向葵の今の状況は、まさにそれだろう。

 あんなものを見てしまったら、あんなものがこの世にあると知ってしまったら、もう前と同じようには暮らせない。

 被害に遭ったのが百合香ではなく知らない人なら、きっと見なかったことにして忘れようとしただろう。

(でも、それってどうなの……百合香なら、もしかしたら「助けよう」って言ったかもしれないよね)

 足が止まりそうになって、ふと日向葵は考えた。

 百合香であればきっと、目の前で誰かが得体の知れないものに拐われたら、どうにかして救出する手立てを考えただろう。大人たちの動かし方だって、彼女であればもっとうまくできたはずだ。

 かつて日向葵も、そんな彼女の勇気と機転に救われたのだ。それ以来ずっと、百合香とは親友である。

 だから、百合香を助けるのは自分でなくてはいけないと、日向葵は自分を奮い立たせる。


「……ここで、百合香は……」


 とうとう、カーブミラーのところまで来てしまった。

 そこに自身の姿を映して、日向葵は固唾を飲む。

 広い範囲を映せるようにと、鏡は凸面になっている。そのため、ギュッと縮んだように映っていて、あまりそんな自分を見ていたいとは思わない。

 だが、それだけだ。

 背後の景色と頭身のおかしくなった日向葵の姿が映っているだけで、おかしなものは何もない。

 強いて言えば、学校を出るときに走ったからか、髪が乱れていることだ。そんな状態で電車に乗ってここまで来たことが恥ずかしくて、日向葵は慌ててショートカットの髪を手櫛で整えた。


「……え」


 そのとき、鏡の中の日向葵の背後に人影があるのが見えた。

 日向葵と同じ高校のブレザーを着た女子だ。

 一瞬、百合香かと思って振り返った。だが、そこには誰もいない。


「ひっ……!」


 どういうことかと再びカーブミラーに向き直ると、鏡面いっぱいに張りつくようにして、さっきの女子生徒がこちらを見ていた。

 その肌は土気色で、首はおかしな方向に曲がっている。そして頭からは血が滴り、べっとりと額から頬にかけて濡れていた。

 あきらかに生きた人間ではないと頭が理解したときには、ミラーからその腕が伸びてきていた。

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