マルタの独白 5

 診察室には誰もいなかった。

 そして蛍光灯からの無機質な白い光が意味もなくその雑然とした部屋を照らしている。

 僕は診察台に飛び上がり、ぼんやりと周囲を見回した。

 壁掛けにされた聴診器や爪切りや駆血帯。

 医療用の模型などが押し込まれた奥行きの深い階段状の棚。

 アルファベットのロゴがクルクルと回り続けるモニター画面。

 部屋の一角に座す灰色のカヴァーに覆われた大型の器械。

 そしてウェルシュ・コーギーが嬉しそうに舌を出して写るカレンダー。


「ふうん、やっぱり幽霊なんだな」


 声に振り向くとゴクラクが棚の上から僕を見下ろしていた。

 僕はおもわず顔をしかめた。


「ほら、体重計。マルタはゼロキログラム」


 そう言われてゴクラクの目線の先を見遣ると診察台に設置されたデジタルスケールがたしかに 0.00 と表示されていた。憮然とその数字を見つめていると今度はゴクラクが降りてきてドスンという重い音とともに診察台が振動する。


「吾輩は5キロと200グラム。いつもながらベストな体重だ」


 彼は静かにそう言うと髭をピクピクと動かして胸を張った。

 ため息を二、三回は連続で吐いてしまいたい気分だった。

 けれど、それなのに僕はゴクラクに顔を向けていた。

 そしてこう聞かずにはいられなかった。


「キミには視えるんだね」


 そう問うと彼は不思議そうに耳をパタパタさせた。


「いや、つまり、僕のような霊がということだけど」


 言葉を継ぎ足すと、今度は頷くように一度だけ前足で顔を洗ってから答えた。


「そういえばマルタが初めてだな」

「どうしてだろう」


 なぜゴクラクだけに僕の姿が見えるのか。

 なぜゴクラクに僕の姿だけが見えるのか。

 あらためて僕は少々混乱してしまっていた。


「さあね」


 素っ気なく返答したゴクラクは、前足のグルーミングを始めた。そして肘の内側のあたりを何度も丁寧に舐めさすりながら彼は僕に訊ねた。


「ところで大昔、この星の全てが厚い氷に覆われていたことを知っているかい」


 全く脈絡のないその質問にはさすがに虚を突かれた。

 そして一拍おいて知らないと答えると、ゴクラクはニヤリと笑う。


「全球凍結」

「ゼンキュウトウケツ」


 僕がおうむ返しに繰り返すと彼は頷いてから、またグルーミングを再開した。


「おとといテレビでやってたんだ。想像もできないような大昔、地球にはそういう時代ががあったらしい。でもな、ちゃんと理由があるんだ。吾輩にはよく分からなかったが、ある種の水中植物が増えすぎたからとかなんとか……。つまり理由もなくある日、突然、地球が凍りついてしまったわけではないんだってさ」


 意味合いの不明な話に黙っていると、しばらくしてゴクラクが言った。


「まあ、そういうことじゃないかな」

「え?」

「だからさ、吾輩にマルタの姿が見えるのはそういうことだろうね」


 ゴクラクは大きく体を曲げて、今度は背中の毛を整え始めた。

 僕は首を捻った。


「わからないな。キミに僕が見えることと地球全体が凍りついた時期があることにどんな関連性が?」

「カンレンセイ? そんなものあるわけない」


 縦長に細くなった瞳がチラリと僕に向けられた。


「ただね、そういう信じられないような現象も、元を正してみれば案外理に適っていることかもしれないってことだよ」

 

「あー!ゴクラク! 消毒済みの診察台に上がるなっていつも言ってるでしょうが」


 振り向くとセリが細い眉を吊り上げパタパタとナースシューズを響かせてやってくるのが見えた。


「こいつさあ、うるさいんだよな」


 そう言って苦い顔をしたゴクラクをセリの手が抱きかかえて床に下ろした。


「呑気にグルーミングなんてしてんじゃないわよ、まったく。仕事増やすなっつうの」

「ヘイヘイ」


 ゴクラクはうらぶれた不良みたいな声で返事をしつつ、尻尾を立てて消えていった。

 

 理に適っている?

 彼に僕が見えることが?

 それとも僕が霊になったことが?


 セリが僕に向けて消毒薬をスプレーした。

 そして台拭きを持つ彼女の手が僕をすり抜けながら忙しなく行き来した。

 

 僕はひとしきりについて想像を巡らせてみた。


 全てが果てしなく凍りついた無音の世界。


 それは今まさに僕がいるべき世界のように思えた。

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