マルタの独白 4

 三日目の朝、僕は初めてゴクラクと会話を交わした。

 シンクの底面に潜り込んできた彼は簡単な挨拶の後、名を名乗った。

 知っていると答えると、妙な顔をしてその髭をピクピクと動かした。

 いつまでここにいるつもりなのかと聞かれて、分からないというとフウンと頷いて出て行ってしまった。

 次の日の朝、ゴクラクがまた現れた。

 名前を教えろという。

 知らないと答えるとそんな訳はないだろうと彼はいびつに笑った。

 そしてまた名を聞くので、面倒臭くなり思いついた名前を教えた。


「マルタね。猫にしてはちょっと珍しい名だ」


 ゴクラクはそう呟いてから多少満足げな顔つきをして出て行った。

 また次の日も彼は顔を出し、僕にいろいろなことを訊ねた。


 キミは幽霊なのか。

 どこから来たのか。

 なぜここに居座るのか。

 そしていつまでいるつもりなのか。


 そんなこと、こっちが聞きたいぐらいだ。

 そう怒鳴りつけたい気持ちを抑えて、僕はもう放っておいて欲しいと冷静な口調で伝えた。

 けれど彼はそういうわけにはいかないと言う。

 彼は自身のことを吾輩と呼称し、ここはその吾輩のテリトリーであるわけだから、居座る僕には答える義務があると力強く主張した。

 僕は彼に分からないように注意深くため息をつき、目を閉じて狸寝入りを始めた。

 しばらくしてゴクラクがゴソゴソと這い出していく気配があった。


「あ、ゴクラク。あんたはまたそんなところに入ったりして、埃だらけになるでしょうが」


 セリと呼ばれている女の声に続いて、ゴクラクがバカにしたようにフンと鼻息を鳴らした。

 やれやれ。本当にもうかまわないで欲しい。

 そう願った反面、けれどそのとき気持ちの隅に夜明けの空のような茫洋とした明るみを感じたのはどうしてだったのだろう。


 そんな風にして七日も経つと、この奇想天外な状況を自然と受け入れ始めた自分がいた。

 もちろん釈然としたわけではなく、どちらかといえばもうどうにでもなれという投げ遣りに近い気分だったが、それでも僕は少しだけ前向きな気持ちを持ち始めていた。

 僕はその日、朝になると決まって行われるゴクラクからの不毛な詰問をいつものように狸寝入りでかわした後、しばらくしてなんとなく思い立ち、シンクの底から這い出してみた。

 するといきなり白いナースシューズが僕の体をすり抜けた。驚いて見上げると黒髪を後ろでくくった看護師の女がシンクでなにかを洗い始めた。


「ちょっと、ナズナちゃん。アレどこ置いたっけ」


 セリという女の声だ。


「アレってなんですかあ」


 僕が見上げているナズナと呼ばれた彼女はずいぶんとスローな調子でそう聞き返している。


「アレよ、ほらアレ。新発売の尿路系疾患のフード。ややこしい長ったらしい名前の」

「ああ、えっと、ユリナリーケアストラバイトゼロコントロールですかあ」

「そうそう、それ。サンプルもらってたよね。アレ、どこにしまったっけ」

「はい、それならあ、先生が倉庫に置き場所ないからってえ、レントゲン室の棚の上の方に置いてましたあ」

「えー、マジ、そんなとこに。もう、テキトーに置くなっつうの。ねえ」


 彼女たちはそこで互いに短く笑った。

 僕はシンクの隣にあるテーブルに跳び上がった。

 そこには数枚の紙片とボールペンやマジックペンの入った筆立、他にもクリップやハサミが無造作に置かれていた。

 散らかった文房具を避けて座ると、正面にナズナの横顔が見えた。小柄で丸いメガネを掛け、前髪を真っ直ぐにそろえた彼女は、話し方と同様におっとりとした風貌をしている。

 背後にはセリが立っていた。彼女の瞳はグリーン掛かった不思議な色をしていた。そして赤錆色の髪を無造作に立て、それが色白の肌と細い顎にとてもよく似合って見えた。

 二人とも臙脂色のユニフォームを着ていた。

 そして二人ともテーブルに乗った僕に一瞥たりともくれなかった。

 分かっていたはずなのに、彼らに自分の姿を認めてもらえないということが僕を少しばかり落胆させた。

 彼女たちは細々とした作業を慣れた手つきで次々とこなし、途方に暮れる僕のそばを忙しげな足取りで何度も通り過ぎた。

 セリの白く細い腕が僕の胸のあたりを突き刺してそこにあるハサミを取り上げた。

 ナズナがテーブルにカルテを置き、僕の背中に顔を埋めるようにしてボールペンで何かを書き込んだりもした。

 僕はそれでようやく自分の存在を完全に理解できたような気がした。

 同時にどこからかひんやりとしたすきま風が僕の胸奥にそっと吹き込んだ。

 少し怖かったのかもしれない。

 自分が微塵もこの世界に存在していないということを認めることが、きっとまだできていなかったのだ。

 彼女たちに僕が見えないにしても、その微かな気配に気がついて不意に僕に目を向けるのではないか。あるいは僕の体に触れられないにしても、そこになにか違和感を感じてピクリと身を強張らせる。もしかするとそのようなこと、つまり生きていた僕の欠片のようなものがこの世界にまだあって、それをわずかにでも感じ取ってもらえるのではないか。

 無意識に潜ませていたそんな期待がはかなく霧散してしまった僕はやがてテーブルから降り、ふらふらと診察室の方に足を向けた。

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