マルタの独白 3

 真夜中になった頃、僕はようやくその難解な空想を打ち切り、シンクの底面から顔を出した。それからそろそろと歩き、なんとなく壁に身を当ててみると造作もなく通り抜けてしまった。

 いましがた通過した壁を振り返り、僕は目をすがめて見つめた。

 ちょうど真横に診察台があったので、跳び上がってみると普通に乗れた。肉球が台を触る感触も確かだ。今度は台の上からドアに向かってジャンプした。するとわずかな衝撃もなく通り抜け、僕は待合室の床に立っていた。

 どういう理屈なのかさっぱり分からないが、ずいぶんと都合の良い体である。

 それならばとふと思い至って、僕はエントランスのガラスに歩み寄りそっと額を当てた。

 すると音も無く、僕は押し返された。

 硬いガラスがやんわりと僕を弾いたのだった。

 他のガラスや壁も試してみたけれど結果はやはり同じだった。

 なるほど、と僕はひとりごちた。

 そして僕はどうやらこの病院は自分にとって牢獄のようなものらしいとようやく理解した。

 

 その救いのない結論になす術もなく待合室の床にペタリと座っていた僕は、しばらくして背後に微かな気配があることに気がついた。おもむろに振り返ると、そこに青い照明の灯った水槽があり、その底に白く寸胴な形をした生物がたたずんでいた。

 近づいてみるとそれは頭部の形状といい、水かきのついた短い手足といい、まったく魚ともカエルとも判別しがたい容姿をしている。

 そして真っ黒でつぶらな瞳は見る意思を持たないただのビーズ玉のようにただそこに取り付けられているように思えた。また、ライオンのたてがみのように首回りに生えた触手や見栄えの悪い短い手足はよく見ると透明な膜と無数の細かな血管で構成されていて、それで先端に向かうほど血の色に赤く染まっていた。乳白色の体表もやはり不透明な膜でその肋骨や筋肉、あるいは内臓を覆い隠しているだけのように見えた。

 ずいぶんと不完全な生物に思えた。

 まるで創作途中、なにかくだらない理由で忘れ去られてしまった彫刻のように。

 水底でジッとうずくまったまま動かないその生物からは生きる意志や目的がまるで感じられなかった。あるいはこの手狭な水槽の中でただ生かされている自身の境遇に憤慨や落胆を感じるといった知性を完全に放棄しているようにも思えた。

 それはどう考えてみても、つまり、僕自身だった。

 僕は天窓の空が白み始める頃まで、水槽の前に座り、ただぼんやりとその生物を見つめていた。

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