マルタの独白 1

 僕は本当にこの世界で生きていたのだろうか。

 時々、それが分からなくなる。

 

 ただ僕がすでに死んでいることに疑いはない。

 僕はどこかこの近くの路上で車に撥ねられ、死んだ。

 

 わずかだがそのときの記憶もある。

 雨の匂い。

 強烈なヘッドライトの光。

 金切るようなブレーキの音。

 そして衝撃。

 ほんの一瞬間のそれが生前の記憶、そっくり全てだ。


 けれど、それは死の根拠ではあっても、生きていた証ではない。

 僕はこの世界のどこに住んでいたのだろうか。

 そしてどういう暮らしをしていたのだろうか。

 それが知りたい。

 けれどなぜ知りたいのかは自分でもよく分からない。


 首輪をしていたというからどこかの誰かに飼われてはいたのだろう。

 交通事故に遭ったわけだから、外飼いの猫だったのだろうか。

 名はなんと呼ばれていたのだろう。

 本当にマルタと呼ばれていたのだろうか。

 僕は首を傾げる。

 ゴクラクにしつこく聞かれてつい答えてしまったが、じつはそのときふと思いついただけの名前だった。けれどデマカセではあったものの、口に出してみるとどこか頭の奥深いところから必然的にこぼれ落ちてきた名のようにも思えた。

 たとえばそれは洪水に削られた土手に一輪だけ残って咲く野菊のように、死が不手際にも取り残した記憶の残滓ざんしかもしれなかった。

 ただ、本当の名前であったとして、それでどうなるものでもない。

 猫には住民票もなければ、出生証明書もないわけだから。


 僕は本当にこの世界に生きていた猫なのだろうか。

 もしかすると、その一切合切がデタラメで気まぐれな神様の作り話のようにも思える。実際のところ、現状の僕はデタラメで気まぐれな作り話のような存在なのだ。


 そして死して生きているという事実は今なお、僕を多少の混乱に陥れている。

 

 亡霊となった僕が最初に目にした光景は、人間が四人、白い箱を囲んで立っている姿だった。

 僕はその箱の真下から彼らを見上げていた。

 人間たちはなにやら深刻そうな顔つきで、ボソボソとくぐもった声で話し合っていた。

 耳を傾けると話題は交通事故で死んでしまった猫についてのようである。

 どうやら箱の中にはその猫の遺骸が入っているらしく、箱を抱えた中年の女性は明日それを焼き場に持って行くと話していた。

 猫の飼い主が分からないので、どうすべきかという相談も聞こえてきた。

 不遇な猫もいたものだと気の毒に思ったが、なにかがおかしい。

 そのときになってようやく、自分がここでなにをしているのかという疑問に考えが至った。

 なにも分からなかった。

 自分が何者かさえ思い出せない。

 けれど代わりに事故の瞬間の記憶が甦った。

 

 なるほど、死んでしまったのは僕なんだ。

 発覚した疑いようのないその事実に、僕は一度深く落胆のため息をついた。

 そして耳を平たく伏せ、尻尾で床を一度だけサッと掃いてみた。

 目を閉じると、僕を包んでいる膜の存在が感じられた。

 それが死者と生者を分ける隔壁なのだろうとなんとなく直感した。

 薄っぺらな膜一枚が僕を世界から切り離している。

 信じがたいそういうことわりのようなものをすんなりと受け入れている自分がいる。

 目を開けて、今度は息を深く吸った。

 そして、いまさらどうしようもないと僕はすべてを諦めた。

 まずは、その場を去ろうと考えた。

 自分の死骸の入った箱の下でぼんやりしていても仕方がない。

 立ち上がり、人間たちに背を向けたところでふと行く手の頭上に視線を感じた。

 見上げると、棚の上に黒猫がいて僕を訝しげな目つきをしていた。

 そしてその金色の瞳がおまえは誰だと問うていた。

 僕はその視線から逃れるようにその部屋から出て行った。

 死者になったばかりなのに見知らぬ誰かと愛想よく会話ができるほど僕は社交的な猫ではなかったみたいだ。


 

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