朝の院内パトロール 8

 診察室はさして広い部屋ではない。

 中央にグレーのソフトシートを乗せた診察台がドンとあり、ブラウン管を頭に持つ時代遅れのロボットのような形状をした超音波診断装置が今は部屋の隅で動きを止めている。また例の凶悪なレントゲン画像を映し出す液晶テレビが壁掛けになっていて、対側には奥行きの浅い箱棚が天井近くまで階段状に積まれている。

 棚の中には予防薬やフードなどの様々なリーフレットの類が取り出しやすいように整然と並べられ、そのほか診療に使うこまごまとした機材が入れられている。

 クルクルと座面の回るドクターチェアと飼い主用に簡素なスツールがいくつか置かれ、天井からは点滴バッグを掛ける長いフックと伸縮可能な電源がブラリと吊られている。とにかくいろいろと必要雑多なものが詰め込まれた狭苦しい部屋がなつめ動物病院の主戦場だ。


 この診察室に日々、様々な動物とその飼い主たちが訪れ、獣医師であるタカトシと看護師であるセリとナズナを頼り、時に難題を吹っかけてくるのだ。


 吾輩は棚の上面に乗せられた眼球や心臓、骨盤などの模型を倒さないように注意深くすり抜けて頂上に登ると、そこに置かれた吾輩用の焦げ茶色の座布団におもむろに身を伏せた。


 ここが目下のところ吾輩の仕事場である。

 まあ、とはいえたいしたことはしない。

 たいていは昼寝をしつつ、気が向けばタカトシたちの仕事ぶりを観察する程度のことだ。それにここなら顔を見るたびに童謡の一節よろしく爪を切れと迫るセリの手も届かないし、たまに逃げ出した小鳥がパニックになって飛んでくるぐらいで、概ね安穏と居ることができる。

 だから吾輩はここが気に入っている。

 けれど、ときおりではあるがこの診察室で吾輩以外のほかの誰の手にも負えないような厄介ごとが持ち上がったりする。

 どのようにいえば良いか、それは飼い主や獣医師たちには決して感知しえない動物たちの声だったりする。

 吾輩の仕事というのは、その声を聞き届けてやるとでもいえば多少は的を射ているかもしれない。

 とはいえ、それはほんの些細なことだ。

 

 たとえば大多数の人間たちが本流と信じる動物医療を見渡すかぎり水平線を超えてなお続く広大な海だとすれば、吾輩が彼らの言い分を聞くことなど雨上がりに街の片隅にひっそりとできた小さな水たまりみたいなものかもしれない。

 それでもその水たまりに目を配るものがいなければ、やがてその水は腐り、やがて流行病はやりやまいの元になってしまうだろう。

 面倒なことだが、動物病院の猫である以上は仕方がない。

 そんなとき吾輩は胸の底に眠るなけなしの使命感と義侠心を奮い立たせて事に当たる事にしている。

 いつかホコサキ様がそんな吾輩に目を細めて身に余るような幸運を与えてくれることを信じて。


 勝手口が開き、セリとナズナが近所にできたカフェの評判を口にしながら入ってくる。

 しばらくしてタカトシが慌ただしく階段を駆け下りてきた。

 彼らはぞんざいに挨拶を交わし、それぞれに散り、診察の準備を始める。


 さて、本日はどんな声が聞こえてくるのか。


 吾輩は目を閉じ、そして耳をすます。

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