朝の院内パトロール 7

 受付と待合室のスペースに入った吾輩はタカトシがよく自慢している栃の木の一枚板のカウンターに登り、辺りを見回す。

 そこは畳二畳分ほどしかない狭い空間で、受付側にはパソコンやプリンター、電話、そのほか細々とした文房具などが雑然と置かれ、背後には千数百枚(二千枚はない、たぶん)カルテが押し込まれた棚がある。

 その奥には薬局と呼ばれる調剤スペースがあり、乳鉢や薬さじなどがこれも雑然と並べられている。

 待合室へと目を向けると細長い廊下のようなその空間に座面の黒い長椅子が二つ置かれ、いまはその後ろに面した腰高の大きなガラス窓から燦然と朝陽が差し込んでそのあたりの床や椅子を輝かせている。

 特に異常はない。

 吾輩はひとつあくびをした後、おもむろに床に身を落とし、その一角に置かれた水槽の真下に歩み寄る。


「おはようございます」


 水面が跳ね返した揺らめく柔らかな光の中で、吾輩はいつものように少しかしこまった口調で水槽の主へと挨拶を送る。

 もちろん主はなにも返さない。

 ただ悠々と水底にその白い御神体を伏せているだけだ。


「ホコサキ様、今日もまた平穏無事な日となりますよう……」


 吾輩はムニャムニャとそのあとの言葉を濁し、手を合わせる代わりに右手でしばし顔を洗う。するとホコサキ様は突然その腕人形のそれに似た大きな口を開き、そこからポコンとひとつ小さな泡玉を吐いた。

 なにかのお告げに違いないが、よくわからない。

 けれどきっと吉兆であるはずだ。

 こうして毎日の礼拝を欠かさない吾輩にホコサキ様が災厄を与えるとは思えない。

 吾輩は平身低頭、背伸びのポーズを決めた。


 ホコサキ様はなんでも神の化身なのだという。

 いつだったかセリがロッカールームで菓子を頬張りながらナズナを相手に話すのを聞いたことがある。

 異国の言い伝えではあるが、ずっと大昔にこの星は太陽をなくしたらしい。

 そのとき真っ暗闇となったその世界で神々たちは話し合って、自分たちが生贄となり新たな太陽を作ることに決めた。

 他の神様たちが次々と火に身を投じていく中で、けれどホコサキ様の先祖である神、ソロティは死にたくないからとそこらにあった池に身を隠したのだ。結果、ソロティは逃げおおせたが、いつの間にかその身は水底でうごめく生物、ウーパールーパーとなっていたという話だ。

 セリやナズナはその話をして、情けない神だとソロティを蔑んでいたが、吾輩はそうは思わない。そうやって生き恥を晒しても、この世に生き続ける苦難を選んだ神は賞賛に値する。

 だってそうではないか。

 人間というやつはすぐ死んで詫びようとしたりするが、それはあまりにも無責任だ。

 神様だって同じだろう。

 こんなことを言うと生贄となって死んだ神には悪いが、生きて太陽を作ることはできなかったのだろうか。

 

 ―――― だって神様なんだからさ。


 とにかく死よりも生を選んだホコサキ様の先祖ソロティは偉い。

 だから吾輩は毎日、ホコサキ様の前で膝を折って祈るのだ。


 今日ものんびり平和に生きさせてください、と。


 頭を上げるとホコサキ様はやはり無為の表情で水底にたたずみ、水流にその血色の良い立て髪(どうやらそれは呼吸をするためのものらしいが)をユラユラと揺らしている。吾輩は束の間、朝陽を浴びて神々しく輝くその乳白色の御神体をじっと見つめていた。

 するとなぜか脳裏に一瞬真っ白いかまぼこが思い浮かんだ。


 ―――― かまぼこ。


 一度だけ晩酌のツマミを拝借したことがあるが、アレはうまかった。

 それに思い出してみると、板に乗ったかまぼこはちょうど大きさもその艶やかで白い色もホコサキ様とじつによく似ている。


 ―――― もしかするとホコサキ様はかまぼこ。


 だとしたら……不意に喉が鳴った。


 吾輩はハッと我に帰り、即座に身を震わせてその夢想を断ち切ると、もう一度背伸びをし、胸の内でホコサキ様に無礼を詫びた。けれど目を上げるとホコサキ様はその短い手足で水底の砂利を這い、御寝所である土管に身を隠そうとしていた。

 やはり気分を害されたに違いない。

 なんということだ。

 せっかく吉兆の思し召しがあったというのに。

 そして吾輩は小さくため息をついて、水槽の横に置いてある透明な瓶を恨めしげににらんだ。

 瓶に詰められたあのウーパーの餌という豆粒を水槽に投げ入れれば、ホコサキ様も機嫌を直してくれるのかもしれないが、吾輩の爪先ではとうてい蓋を開けられそうにない。

 仕方がない。あとでセリかナズナにやらせようと心に決めて、吾輩は最終目的地である診察室へと足を向ける。

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