朝の院内パトロール 6
実のところ、院内には吾輩の立ち入りを拒む部屋がある。
それがレントゲン室と手術室だ。
レントゲン室は吾輩にとって全く未知の空間である。
室内にはエックス線と呼ばれる目に見えない凶悪な光線を放射する装置があり、それに当てられた者は一時的に体の内部が透き通って見えてしまうらしい。
タカトシたちは毎日のように患者である動物を連行してレントゲン室に入り、その透き通った体の写真を撮って出てくる。それから写真を飼い主に見せて、これはちょっと肝臓が大きくなっていますね、とか、膀胱に石ができています、などと偉そうぶって講釈をするのだ。
吾輩はエックス線に当てられた者たちが心配になる。
もちろんそれによって病気や怪我の状態を把握するという理屈は分かるが、もしや透き通った体がそのまま元に戻らなければ随分と困ったことになるのではないだろうかと吾輩は憂いを覚えるのである。
腕や足の骨ならまだしも、肋骨やら骨盤、ましてや膀胱結石を露わにして人前に出るなど、ちょっと吾輩なら恥ずかしくて我慢ならない。
幸いながらいまのところそういう状態になった者は見ていないが、この先いつそういう悲劇が起こるか分からない。
もちろん吾輩がそうなる可能性もある。
好奇心にまかせて死地に飛び込むほど吾輩は不用心でも酔狂でもない。
それにエックス線とやらがドアの隙間から漏れ出ている可能性だってある。
吾輩はレントゲン室の重厚なドアから充分に間合いを取って通り過ぎる。
その隣にある手術室の入り口はガラス張りの開き戸で室内が見通せるようになっている。
中には診察台よりもひと回り大きな手術台やテレビみたいな形をしたモニターという器械、他にも何のために使うのかよく分からない妙な形をした機器が所狭しと置かれている。また天井には無影灯という巨大な円板状のお化けライトが取り付けられていたりして、なかなかエキセントリックな風合いがある。
実はあの無影灯の上で午睡をしてみたいというのが吾輩のささやかな願望のひとつなのであるが、実はこの部屋に入ること自体、タカトシに硬く禁じられている。
もちろん奴ごとき小人にそんな制約を受けるなど、腹立たしい限りであるが、手術室に吾輩の毛が落ちていたりするとどうやら具合が悪いらしい。
なにがどう悪いのかはよく分からないから、いつか侵入して思う存分物色してやろうと吾輩は密かに胸に決意しているが、なにぶんこの開き戸は重くて猫一匹の力ではどうにもならない。そのうちマルタにでも手伝わせてやろうと考えながら、吾輩はいつものようにその薄暗い室内を背景にしたガラス扉の前に座り、そこに映る真っ黒な猫をしばし見つめる。
黒はいい。
重厚で強い色だ。
茶トラや三毛などよりずっと潔さがあり、軽薄さがない。
だから思慮深い吾輩は黒を気に入っているのだ。
ただ惜しむらくは少し毛足が短い。
もう少し長毛の毛質、例えばたまに診察にやってくるペルシャ猫のようなら、吾輩の美しさはさらに引き立つだろう。
けれど、まあいい。
美は思わぬ災厄を引き寄せると聞いたことがある。
面倒は避けて通るに限る。
そういえば吾輩、この手術室に一度だけ入ったことがあった。
ただし、その記憶はない。
吾輩は麻酔で眠らされて、知らぬ間に去勢手術というやつをやられたのだ。
あの時はさすがの吾輩も一時ながら塞ぎ込んだ。
痛みも多少あったが、それよりも吾輩は精神をやられたのだ。
突然、しかも強制的に男である権利を放棄させられたのだから我ながら無理もない話だ。
もしこの世の中に猫権侵害に関する委員会みたいなものがあれば、吾輩は真っ先にそこに訴え出て、刑事告訴でもなんでも取り付けるところだった。
けれどそうなれば結果的に吾輩とタカトシは法廷で争うことになり、少なくともタカトシには懲役刑、セリやナズナもその幇助の罪で執行猶予付きの刑が課せられるに違いない。
少し冷静になってそう考えた吾輩はジッと無念の想いに耐えて黙することにした。
付き人であり、飯の種でもあるタカトシがいなくなると困るし、それに牢獄で廃人のようになったタカトシを想像すると少しばかり不憫に思えてくる。
だから吾輩は彼奴を許すことにした。
心が広い猫なのだ。
その寛容さから想像するに、もしや吾輩は没落した貴族か王族の血筋なのではあるまいか。
そうでなければ吾輩のこの端正な容姿にも頷けないというものだ。
それならばやはり吾輩はその血統を後世に残す役割があったのかもしれない。
去勢手術……。
再び、怒りを募らせた吾輩は結局、タカトシの顔に三本の爪痕をつけ、さらに奴の敷布団に放尿してやった。
報復としてはかなり稚拙で軽いが、この辺りが矛先の納め所だったろう。
吾輩はガラスに映る自分の姿から目を切って回想を終えると、早朝パトロールの締めに向かった。
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