朝の院内パトロール 5
入院室にも居候がいる。
こちらはまだ生きている。
ミニチュアダックスフントの老犬で、名をローズという。
吾輩が見回りに入るとローズ婆さんはケージの隅でお愛想に尻尾を何度か振る。
「おはようさん。もう朝かい」
「うん、そうだよ」
「困るよねえ、目が見えないっていうのはさ」
なぜかローズ婆さんは江戸っ子口調だ。
「だろうね」
「白内障っていうんだってさ。さき
婆さんは歯がほとんどない口を目一杯開けてあくびをした。
「けど、見えもしないのによく吾輩がやって来たってわかるね」
「そりゃ分かるさ。扉が開く前にあんた爪の音ガリガリさせるじゃないか」
「なるほどね」
婆さん、まだ呆けちゃいないらしい。
「それよか、あんた、調べてくれたかい。あたしの家のモンはいつ迎えに来るかって」
「ああ、それね。さあ、まだちょっと、分からないね」
吾輩がやや口ごもるとローズ婆さんはいつものように早口で捲し立てる。
「ねえ、早く教えとくれよ。カルテとかいうのを見れば分かるんじゃないのかい。もうイヤんなるよ。ここにはお気に入りのソファベッドもないんだから。あたしはあれで昼寝しないと疲れが取れないんだよ。それにさ、友達のゲンさんやチャコとまた散歩がしたいんだよ。ねえ、なんとかしておくれよ」
「分かった、分かった、調べてみるから、もうちょっと待っておくれよ」
おっと、江戸っ子が感染ってしまった。
「約束だよ、ゴクちゃん。早いとこ頼んだよ」
吾輩は生返事をしながら、這々の態で入院室を後にする。
そして思う。
気の毒なことだ、と。
ローズ婆さんの飼い主は行方不明だ。
三ヶ月前、ローズ婆さんはいつものようにグッチの黒いキャリーケースに入れられてやってきた。
飼い主はこの辺りではわりと大きな建設会社の社長夫妻。彼らは常にブランドもののバッグや服を身にまとい、高級そうなシルバーのセダンに乗って病院にやってきていた。周囲に緊張を強いるその出で立ちながら、ただ話してみると彼らはじつに温厚な人柄で、二十も三十もそれ以上も年下であろうタカトシを先生、先生と頭を下げ下げ慕っていた。
そして、その日も彼らはいつものように夫婦で連れ立って診察室に入った。
「先生、実は急に海外出張の仕事が入りまして」
旦那のほうが土建屋の社長らしく、ダミ声で切り出す。
「はあ」
「そんで明日から北欧なんですわ」
「北欧ですか、いいですねえ。ノルウェーとか?」
何がいいのかわからないが、タカトシが寝ぼけた声で聞く。
「フィンランドですよ。あそこはパイン材の取引先なんです」
「はあ、なるほど」
「そんでフィンランドに行くって言ったら、コイツも行きたいっつうんですよ」
旦那は照れたように言って、禿げ上がった頭頂部をパチンと一度叩いた。
「ほら、この時期ね、北欧っていうとオーロラでしょ。私、一度見てみたいなって」
カミナリさんのようなパーマのその家内がそう言ってわざとらしく胸の前で手を組んだ。
「へえ、オーロラっていうのは春がいいんですか」
タカトシが聞き返すと、家内がええ、まあ、などと言って言葉を濁した。するとなにやら夫婦の間にぎこちない間が一瞬置かれ、旦那はそれを振り払うように身を乗り出す。
「そんでね、先生。急で申し訳ないんだけど、ひと月ほどローズを預かって欲しいんですわ」
「え、ひと月ですか」
タカトシが少し驚いた口調を返した。
1ヶ月という長期のホテル預かりはこの病院では聞いたことがなかった。
「ええ、ちょっと長いんだけど、取引先をいろいろ回るとそれぐらいになるんですわ。そんでローズは歳が歳でしょ。預けるなら先生とこじゃないと安心できないんで。ダメですかねえ」
そう訊かれてタカトシは壁のカレンダーを見やり、しばらく考えてから返答した。
「構いませんよ。大丈夫です。でも、具体的にはいつまでですか?」
「いや、それがちょっとまだ未定なんで、分かったら連絡するってことでいかんですか」
旦那に手を合わせられて、タカトシは多少困り顔になりながらも軽く頷いた。
「まあ、いいでしょう。ただなにかあったときの連絡先は教えておいてくださいね、一応」
「はい、じゃあ先生、こいつを、ローズを……どうかお願いします」
「お願いします。ローズや、必ず迎えに来るからね」
吾輩、このときおかしいと思った。
飼い主の二人のその声が最後うっすらと涙声に変わったからだ。
たしかに1ヶ月は少々長いが、泣くこともないだろう。
それではまるで今生の別ではないか、と。
それにオーロラっていうのはこの前テレビでやっていたが、見頃は厳冬だったのではないだろうか。たしかエスキモーのような格好をした出演者が凍えながらそう話していたと思う。
案の定、約束の一ヶ月が過ぎても、彼らからの連絡はなかった。
連絡先の携帯電話にかけてみると不通で、調べるうちに、ちょうどその一ヶ月ほど前に建設会社は不渡りを出していたことが分かった。
夜逃げだった。
もちろん逃亡先に犬を連れて行くわけにはいかない。
だからタカトシは体良く騙されて老犬を押し付けられたというわけだ。
こうしてローズ婆さんは晴れて正式にこの病院の居候となった。
人間とはかくも身勝手な生き物だ。
ペットではなく家族。
そんな風に耳触りの良い御託を並べて十数年一緒に暮らしても、我が身を守るためならその家族をあっさりと捨てる。そんなことはずっと前から承知だが、ケージに入れられたローズ婆さんを見て、これがその身勝手さの代償かと思うと哀れでならない。いっそ婆さんにそういうことだから、新たな拠り所を見つけてそこで余生を過ごしたほうがいいと忠告してやりたいとも思う。
ただ、タカトシの見立てによると婆さんは心臓を患っているらしく、正直に事の真相を告げて、もしやその場でコロリと逝ってしまわれても後々夢見が悪そうだから、やはり当面は黙っているつもりだ。
吾輩はしかつめらしく髭をピクピクさせながら次へと向かう。
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