朝の院内パトロール 4
ロッカールームの点検を終えた吾輩は次に処置室へと向かう。
処置室というのはいわば診察室のバックヤード的な空間で、その名の通り診察室では行えない処置をするところだ。
病院のほぼ真ん中に位置し、診察室以外にも入院室や手術室などにも通じるハブ的な役割もあるわりと広い部屋である。また検査室も兼ねていて様々な機器類や診療用具が周囲を取り囲むようになかば雑然と並んでいる。
そして部屋の中央には主に麻酔下での歯科処置や皮膚疾患の動物の薬浴などを行うシャワー付きステンレス製の大きなシンクが置かれている。
吾輩はひとつ気の抜けたあくびをしてからそのシンクに歩み寄り、下面に空いた二十センチほどの空間を覗き込んだ。
「よう」
そこでいつものように丸くなって寝ていたマルタに声をかけるとヤツはほんの少しだけ顔を上げ、眠たげなまなざしを向けて言う。
「ねえ、キミ。もうほっといてくれって言ったはずだけど」
「そうはいかん。ここは吾輩の縄張りだからな。少しぐらいなら構わんが、そういつまでも居座られていたのでは吾輩の沽券にかかわるというものだ」
「まあね、ボクが生身の猫ならそうだろうけど」
さすがに少しはバツが悪いのか、マルタは前足で顔を洗う。
「関係ない。それに生身じゃないなら、早めに成仏した方がいいと思うが」
マルタがそこに住み着いたのはひと月ほど前のことだった。
その日、病院が閉まる直前、化粧の濃いおばさんが飛び込んできた。
「猫を轢いた。猫を轢いた」
そう金切り声を張り上げるそのおばさんの胸には、血みどろのぐったりした白猫が抱かれていた。
彼女はセリに導かれて診察室に駆け込み、猫を台に置いた。
いつものように棚の上から眺めていた吾輩の目にも、それはもう一言で云ってどうしようもない状態だと思えた。
なにせ頭が潰れて、洋梨のように妙な形をしていた。
また両眼は漫画のように飛び出しているし、口と言わず鼻と言わず、血が流れ出していてたちまち診察台に小さな血だまりができてしまった。
もちろんその身体はピクリとも動かない。
首には小さな鈴のついた青い色の首輪がしてあった。
タカトシは聴診器をしばらく当ててから、どこか芝居のように首を振るとおばさんは精魂尽き果てたようにその場に座り込んでしまった。
そして泣き咽びながら「そんなにスピードは出してなかった」とか「普段はあまり通らない小道に入ったのがよくなかった」とかブツブツと念仏のように呟いていた。
しばらくして顔を上げるとおばさんは涙でアイシャドウが流れてまるで太った般若のような顔になっていた。
セリが白いタオルで猫を包み、ナズナが適当な大きさの箱を用意してそれに入れると、おばさんはようやく腰を上げて箱を胸に抱いた。
「どうしたらええんやろ」
おばさんが憔悴した顔で聞く。
タカトシはこの子が飼われていた家が見つかるといいんですけど、と神妙な顔つきで返した。
「近所の人に聞いてみよか」
「そうですね。あと張り紙とか」セリが言う。
「そやけどすぐには見つからんかも」
「お骨にしてもらわないと」ナズナが言う。
「そやね。それは罪滅ぼしに私がする」
おばさんが少し穏やかな顔になって頷いたそのときだった。
箱の隙間から白い煙のようなものが湧いたと思うと、それはドライアイスのように床に垂れてムクムクと一塊になり、しばらくしてやがてそれは白い猫になった。
その毛足の長い白猫はしばらくの間、頭上で話し込む人間の顔を見上げてキョロキョロしていたが、そのうちに不審げに瞳を細めて吾輩を見遣り、それからなにかもう諦めたような顔つきになって彼らの足許をくぐり抜けて処置室へと消えていった。
もちろん人間たちはそのことに誰も気がついていなかった。吾輩は多少驚いたが、そういうこともあるだろうと思い黙っていてやることにした。
奴はその後、とりあえずシンクの下の隙間に潜り込んで居場所としたようで、覗くとつまらさそうな顔を向ける。ただその態度に吾輩に対する敬意も何もないようだったから、何日かして名前ぐらい名乗れというと渋々マルタだと答えた。
「成仏ね。そう簡単じゃないみたいだよ、それ」
「他人事みたいに言わないでくれよ、マルタ」
吾輩はそう言い残してシンクの下から這い出した。
そして背伸びをしてから次は入院室に向かう。
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