第9話 魔女狩りの兆し

「今日はいい天気ね。まさに洗濯日和!うん、旦那様のワイシャツもパリッと仕上がってる」

 セレスティアは鼻歌交じりで、洗濯物を取り込んでいた。傍らで彼女の弟子のひとり、若きメイド補佐のクレアが、服を畳みながら籠の入れていく。

 城の門のほうが騒がしい、あれは黒衣の異端審問官たちのチーム。数名の隊員の中で隊長はひと際目を引く金色の短髪の長身の男。部下に指示を出し、手元の地図を確信していた。その後、馬に跨り、場外に出た。

「クレアさん、少しよろしいかしら。買い物を忘れていたわ」

「メイド長、それなら、私が行きます」

「いいえ、少し私用がありますの、あとは頼みますよ」

 セレスティアは門まで優雅に歩き、クレアの視線がなくなると、走り出した。

 しかし審問官たちを見失ってしまった。ティアは路地裏に入ると、天使の羽を出現させ、上空から彼らを探した。

「どこかしら……いた!」

 彼らは商店街の一角の空き店舗に入っていったようだ。


 薄暗い地下室。グーテンベルクの新しい印刷技術で作られた小冊子が、女性たちの手から手へと渡されている。「女性にも学問を」「教会の教えは男たちの都合なのでは」そんな言葉が、ろうそくの明かりの下で囁かれていた。

 リーダーらしき白髪交じりの女性が、小声で熱を帯びた声で語る。「聖書にも記された女預言者たち、彼女たちのように、わたしたちにも神の声を聞く権利があるはず。わたしたち女性を蔑ろにする今の教会は、真の救済にはなりえない……誰か来る!隠れて!」

 

 しかし、すでに時遅し。異端審問官長ディートリヒ・フォン・ヴァイスブルクは、部下たちを従え、静かに地下室に降り立つ。彼は部下が手にした石板に白亜のチョークで素早く文字を記し、副官に示す。生まれつきの聾唖者である。

 その名家の跡取りでありながら、生まれ持った聴覚の欠如ゆえに聖職の道を選んだと噂される人物だ。戦場で負った傷の痕を隠す黒い眼帯の下には潰れた目。その目で天使を見たという噂さえある。残された片目からは、相手の心の内まで見通すかのような鋭い眼光が放たれていた。二重の障害を感覚の研ぎ澄ましで補い、邪教の気配を嗅ぎ分けると評判の異端審問官。人々は彼の姿に、神罰の化身を見るのだった。

 副官が厳かな声で読み上げる。

「汝ら、異端の輩、神の裁きを受けよ」

 混乱の中、女性たちが次々と拘束されていく。ディートリヒはその様子を冷徹な目で見つめながら、わずかに頷く。そこに、彼の耳の奥、脳髄を直接震わせるような声が響く。それは蜜のように甘く、毒のように危険な声だった。

「よくやった、我が忠実なる使徒よ。これこそが楽園へ至る道、また一歩近づいたぞ」

 

 空き家の入り口で、人間の何倍もの聴覚でこの一部始終を見守っていたセレスティア。彼女には審問官の心に届く声が、偽りの神の声だと感じ取れた。それは彼女が覚えのある声音、かつて天界で聞いた、ある堕天した者の声に似ていた。しかし今は、その事実を証明することはできないし、自分の立場も危うくなるだろう。

 ディートリヒは新たな命令を石板に記し、副官に差し出す。

「全員を収監所へ」

 セレスティアは静かに首を振った。信じるものを強制する現在の教会に憂いていた。その瞳に深い悲しみが宿る。何一つ変えることはできない現状が悔しい。それが最も辛いことだ。

 セレスティアは、ヘルミーネたちに彼が標的を定めることを想定し、信用できる仲間を天界から早急に呼び寄せようと心に決めた。その後輩の少し冷たい声を思い出し、自分の助けに応じてくれるのか思案した。


 深夜の教会、銀の月光がステンドグラスを透かして礼拝堂の床に落ちていた。澄んだ空気に微かな塵が待ってる。

 セレスティアは人気のない祭壇の前に静かに進み出ると、膝をつき、手にした小さな革の旅行鞄を開いた。アンティークな色合いの優美な四角い鞄は、人間界の貴族が好む高級品に似ているが、天界で作られたものだ。

 中から取り出したのは、古い電話の受話器だけを切り取ったような黄金の器具。セレスティアは目を閉じ、短い祈りの言葉を呟くと、祭壇の上に小さな光が宿り、銀色の翅を持つ人形のような存在が現れた。自動天使と呼ばれる彼らは、天界と地上を繋ぐ使者の役目を果たす。妖精のように愛らしいその姿は、天界の技術の結晶だった。

「テオリスのもとへ伸ばしてくれるかしら」

 セレスティアの言葉に、自動天使は無言で頷くと、受話器から透明な糸を引き出し始めた。その糸は教会の天井を貫き、月明かりに輝きながら遥か天界へと伸びていく。セレスティアは受話器を耳に当て、懐かしい後輩の声を待った。

 やがて受話器の向こうから、明らかに寝入りかけていた様子の声が響いてきた。

「ふあ……今寝るところなんですが、明日でいいですか?セレスティア」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!久しぶりだというのに。あと別に気にしないけど、先輩って呼ばなくなったのね……」

「ふあ……もう、学生じゃないんですから、不合理です」

 セレスティアは思わず声を上げ、受話器を持つ手に力を入れた。

 (テオリスのペースに載せられちゃダメ)

 相変わらずの素っ気なさに、懐かしさと苛立ちが入り混じる。

 テオリスは天使学校で彼女の後輩だった少年。類まれな才能で飛び級を重ね、最年少で卒業したエリートである。その後、彼は天界きっての外交官であるセレスティアの兄、ガブリエルの秘書官という重職に就いていた。

 彼女には分かっていた。テオリスが、何故あれほど冷たい態度を取るのか。長らく人間界でメイドという身分に身を置く自分を、彼は理解できないのだ。その眼差しには、露骨な軽蔑の色が浮かぶ。

 しかし、どうにも憎めない。セレスティアは密かに微笑む。愛らしい容姿からは想像もつかないその頑なな性格。頭を撫でようものなら、まるで怒った子猫のように拒絶する彼の姿が目に浮かぶ。しかし、頼りがいはあるからこそ、こうして連絡をとっている。

「寝るのはまだ早いでしょう。それとも、ガブリエル兄様に残業が多すぎると言いつけましょうか?」

「ぜ、全然大丈夫です!」慌てたような声が返ってくる。「それに兄様じゃなくて、閣下と呼んでください」

「はいはい、私は妹だからいいの。テオ、あなたに相談があるの」

 セレスティアは故意に愛称で呼んだ。案の定、受話器の向こうで小さく舌打ちする音が聞こえる。

「今夜は本当に遠慮します。明日にしてください。それに僕は……」

 言葉を濁すテオリス。おそらく「人間界の案件には関わりたくない」とでも言いたげだ。

「これは天界の案件よ。人間をたぶらかしている天使が関係してるの、悪魔よりたちが悪いわ」

 一瞬の沈黙。その一言で、テオリスの態度が変わったのが分かった。

「まあ、あなたが断るだろうと思って、事前にガブリエル兄様には相談済みよ。明日からしばらくお休みをいただけることになってるの」

「え!?」テオリスの声が裏返る。「そ、そんな話、聞いてませんが……」

「おそらく明日、兄様からその旨、伝えられるはずよ」

 セレスティアは少し意地悪く追い込む。

「テオ、ガブリエル兄様があなたを手放すのが不安なんでしょ?もういらないんじゃないかって」

「そんなこと……」

 セレスティアは少しだけ間を置いて、テオリスを焦らした。

「そんなことあるわけないでしょ。頑張ってるって、いつも褒めているわよ」

「騙しましたね、セレスティア……分かりました。それで、具体的に何をすれば」

「そうね、北塔の礼拝堂で。明日、昼の鐘が鳴るころに」

「分かりました。……他に誰か来るんですか?」

 セレスティアは一瞬言葉を濁した。テオリスに事前に話せば、きっと彼は来ないだろう。

「ええ、女王と、あと心当たりのある方を二人ほど。詳しいことは会ってから説明するわ」

「……また何か企んでますね。悪魔と組んでいたことは履歴に残ってるんですよ」

 鋭い直感だった。しかし、セレスティアは軽く受け流す。

「あら、疑り深いのね。私をそんな天使だと思う?」

「はい、思います」

 即答である。天使に嘘をつく天使というのも、おかしなものだが、仕方がない。セレスティアはアデルからの年月の間に、「折り合い」というものを学んだのだった。

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