第8話 グレーテの紙芝居
印刷所の空気は、墨と革と油の匂いで満ちていた。
木製の大きな印刷機が部屋の中央に鎮座し、二人の職人が交代で梃子を動かすたびに軋む音を立てる。ホフマン印刷舎の二階に響くその音は、かつて祖父が写本を扱っていた頃には想像もできなかったものだろう。
ここは聖ルミナリア学院の生徒のひとり、グレーテ・ホフマンの父ヨハン・ホフマンが経営するホフマン印刷舎である。グーテンベルクの新しい印刷技術を取り入れようと決めた父ヨハンの投資は、当時、商会でも無謀とも思われた。しかし今日では、注文が絶えることはない。棚には大小様々な活字が整然と並び、朝日を受けて銀色に輝いている。
グレーテは学生服で、登校前に手伝いをしていた。「はい、この『M』はこの箱、『A』はこちらです」グレーテは使用済みの活字を丁寧に仕分けていく。そしてぼろ切れ布でインクを綺麗にふき取る。それぞれの文字には決まった場所があり、次に使うときのために整理しておく必要がある。
「グレーテ、学校の制服でやったら、インクで汚れるだろう」
ヨハンがいつものように口を出す。
「親方は、すぐ甘やかすんだから。手際いいですぜ、お嬢さんの腕」
周りの住み込み職人たちがちゃちゃを入れた。
「お嬢様、そろそろ学校のお時間では?」
職人の一人が急かす。
「いっけない。急がなくちゃ!」
「行ってらっしゃいませ!」
「いってきます!」
職人全員が声を上げる。メイドや使用人はいないが、ここではグレーテも貴族扱いだった。
ヨハンは、本、つまり知識への愛情から、これからは女性にも教育が必要であると考える先進的な人物だ。妻や周囲からは「甘やかせすぎだ」と言われる始末。しかし、その信念は曲げないようだ。こうして、商人の出身でありながら、グレーテは貴族の学校に通うことになった。
そんなグレーテには、大切な習慣があった。それは、近所の子供たちに紙芝居を読み聞かせること。子供たちは文字を学習する機会もなく、ゆえに本に触れることもほとんどない。だからこそ、物語の楽しさを伝えたい――そう願う彼女の気持ちが、自然と手製の紙芝居を作る行動につながった。それは、密かに作家を夢見る彼女が、物語の世界へと一歩を踏み出すきっかけだったのかもしれない。
店の路地を抜けた先にある空き地が、夕暮れまでの時間、今日もグレーテの「劇場」だ。グレーテは木の切り株を小さな舞台に見立て、紙芝居を広げている。そして、目の前には期待に目を輝かせる子供たちがいた。
商店街の子、農家の子、貧民街の子――小さな彼らはまだ階級の違いも知らず、ただ物語の世界に心を躍らせ、肩を寄せ合って笑い合っている。しかし、そんな無邪気な子供たちも、あと数年も経てばお互いに違いを意識し、別々の道へ進むようになるのだろう。
ふとそんなことを考えると、グレーテの心に一抹の寂しさがよぎった。
「今だけは……せめてこのひとときだけは、みんな一緒に楽しんでほしい」
そう願いながら、彼女は今日も心を込めて紙芝居をめくり、子供たちに語り始めた。
「昔々、遠い国に勇敢な英雄がいました。名前はレオ。彼は剣を掲げ、怪物に立ち向かう決意を固めたのです……」
グレーテにとっても、この瞬間がかけがえのない宝物になりつつあることを、彼女自身もまだ気づいていないのかもしれない。
グレーテは話の中で登場人物が怒りを燃やしたり、悲しみに涙を流したりするたびに、声色を変え、時には眉をひそめ、時には口角をあげて微笑んでみせる。彼女の表情豊かな語りに、子供たちは息をのんだり、思わず身を乗り出したりして、夢中で耳を傾ける。
「そして、レオは闇の怪物に向かって一歩を踏み出しました。すると……」
「うわぁ!」「レオ、負けるなー!」
子供たちの歓声が空き地に響き渡り、応援する声もちらほらと上がる。
寮を飛び出したフリーデリケは、あてどもなく暮れ始めた町の中をただ彷徨っていた。
もとは悪魔界の名門の出身だが、今やこの学院では「問題児」としての立場が確立してしまった。つい先日もクラスメイトに絡まれ、逆に彼らを黙らせたばかりだ。その一件で、ストロス先生からも厳しく釘を刺された。
だが、今度ばかりは我慢ならなかった。自分の部屋が荒らされているのを見つけ、怒りに自制を忘れ、廊下に飛び出した。「やった者は出てきなさい!」と怒号を放ったが、反応はない。
悪魔界からの留学生であることを隠すために力を抑えていたが、無遠慮に踏み込まれたことへの苛立ちが抑えきれなかった彼女は、魔力をうっかり解放してしまい、衝撃波で天井が抜け落ちてしまった。
まわりの生徒たちが驚きで部屋から顔を出した。フリーデリケの怒りの赤い瞳に気づき、慌てて部屋のドアを閉めたが、気まずそうに視線を逸らした女性徒を見逃さなかった。
彼女の部屋のドアをこじ開けると、「ほっといてくれる!あなたが何もしなければこっちもなにもしない」と警告した。窓ガラスが魔力の波動で粉々になった。
彼女は謝罪を言おうとしたが、恐怖で口が回らず、震えながら嗚咽した。
その姿に突然、フリーデリケは興醒めした。腕に抱いた読みかけの本を抱きしめ、寮を勢いよく後にした。だが、出てきたものの、気づけば途方に暮れていた。悪魔界ならば、父親が耳にすれば相手に容赦はしないのに。
「そもそも人間と友達になろうとしたのが、愚かだったのよ……」
ここでは人間が、羽虫のように自分を苛つかせる。居心地の悪い寄宿舎と陰口、行く当てもなく歩く自分――ふと、惨めさにため息がもれた。そして、フリーデリケは悪魔界にも友達と呼べるものがいなかったことを思い出し、苦笑した。
「自業自得ってこと……?」
そこへ路地裏から、子供たちの嬌声と、聞き覚えのある少女の演技じみた声が聞こえてきた。
フリーデリケは子供が苦手だった。だが、今の敗北感が彼女にいつもとは違う行動を選ばせた。彼女は誘われるように、路地を進んだ。
フリーデリケは本を胸に押し当てると、少しだけ路地の奥をのぞき込んだ。グレーテを中心に子供たちの輪がある。
(紙芝居、ね。クラスでは大人しいあの子がねえ……)
紙芝居の絵はつたないが、何とも味がある。やけに表情豊かな彼女に、無邪気な歓声を上げる子供たちが応えていた。フリーデリケは眉をひそめて軽く鼻を鳴らしつつも、その場から足が離れない自分に気づく。
「ふん……くだらないわね。庶民の子供たちが夢中になってるだけだもの。こんなもの、大公爵家の私には……」
心の中でそう言い聞かせるが、目はしっかりとグレーテの紙芝居に釘付けだった。フリーデリケも、いつの間にか物語の一場面を頭の中で想像してしまっている。
「……そして、レオは怪物の前に立ちはだかり、こう叫びました。『この剣がある限り、お前に我が民を渡しはしない!』」
紙芝居が終了し、家路に急ぐ子供たちが、フリーデリケの前を走りすぎる。「すごい!」「また聞かせて!」と口々に声を上げる。一人、また一人と彼女の脇をすり抜けて行く子供たち。彼らの嬉しそうな顔を見ていると、どこか胸がちくりとするのを感じた。
子供たちに手を振って見送るグレーテと視線が合う。フリーデリケは思わず、路地奥に身を隠したが、遅かった。
「もしかして、フリーデリケ様ですか?」
心臓が一瞬ドキリと高鳴るが、すぐにそれを隠すように顔をしかめ、冷たい声で返した。
「どこで何をしてようと勝手でしょ。わたくしがあなたの紙芝居になんて、興味があるとでも思って?」
高飛車な彼女の態度にも、グレーテは穏やかに微笑んで見つめていた。
「たしかに私の拙い腕では、こんなものしか作れません」
「そ、そんなこと言ってないでしょ。……まあまあよ」
フリーデリケはなぜか彼女には嫌われたくないと思ってしまった。
「ほんとうですか!嬉しい」
素直すぎる彼女は悪魔のフリーデリケだからこそ、なおさら見ていて危なっかしく思えた。
「それ、『薔薇物語』ですよね?」
と、グレーテがふと声をかけてきた。
本を抱えたままのフリーデリケは、軽く眉をひそめて彼女を見下ろす。
「ええ、そうだけど、なにか?」
グレーテは少し目を輝かせて微笑んだ。
「わたしも好きなんです。その中の戒律が、何だか素敵で……」
フリーデリケは鼻で笑うように息をついた。
「十の戒律、ね。低俗な考えを避け、高慢に陥らず、服装に気をつけ、……なんて無理よ。あなたはどうなの、グレーテ。できると思う?」
グレーテは恥ずかしそうに笑いながら、しかし目をそらさず答えた。
「全部は無理かもしれませんけど、『己の天分を伸ばし、機嫌よく、陽気で快活に振舞い』の部分は、そうありたいと思います」
「ふーん、さっきのあなたはそうだったんじゃない?」
フリーデリケはぶっきら棒に答えた。
「フリーデリケ様にそう言ってもらえるのは光栄です!」
「その『フリーデリケ様』ってやめてもらえる? わたくしの屋敷のメイドじゃないんだから。フリッツでいいわ」
フリーデリケは少し照れたように言いながらも、強引に言い切った。
グレーテは驚いたように目を丸くし、戸惑いを隠せないまま口を開く。
「そんな、貴族様を呼び捨てなど……」
「わたくしがいいと言っているのよ」
と、フリーデリケはまっすぐな目でグレーテを見つめた。
しばらくして、グレーテはふっと微笑んだ。
「……わかりました。フリッツ。私のことは、グレーテと呼んでくださいね」
グレーテはスカートの裾を両手で持ち上げてお辞儀をした。親の教育の賜物だろう。
「あなた、本が好きなのね?」
と、ふと興味を引かれたようにフリーデリケが尋ねる。
「ええ、だって、すぐそこの印刷所が私の家ですから」
と、グレーテが答え、あどけない笑みを浮かべた。
「最近、工房の隣で小冊子を売り始めたんです。よかったら、覗いて行ってくださいね」
と、グレーテが小さな声で宣伝をした。
「気が向いたらね」
フリーデリケはなぜか彼女が眩しく、これ以上の会話は困難だった。背を向けると、彼女が言ってきた。
「フリッツ。あの……今度、学校で、本のお話をしましょう」
「……ええ」
それは聞こえるか聞こえないかのような小さな声だった。
少しだけ宿舎の事件でささくれ立った心が静まった。
フリーデリケはグレーテと別れた後、ふと帰る場所がないことを思い出し、肩を落とした。仕方なく、川べりの橋の下に腰を下ろし、帳が落ち、字が読めなくなるまで本を開いていた。夜の冷たい空気に包まれながら、両足をぶらぶらと、今日のできごとをぼんやりと考え込んだ。
ふと、背後から重い足音が近づいてくる気配がした。
「おい、フリーデリケ、やってくれたな。寮を吹っ飛ばしたとはな!」
と、低い声が響く。振り返ると、ストロス先生が腕を組んで彼女を見下ろしていた。
「今度やったら、強制送還だと言ったよな」
先生の目がきらりと光る。
フリーデリケは顔を川面を見下ろしながら呟いた。
「ええ、わかっていますわ」
「ずいぶん素直じゃないか。おまえらしくもない」
ストロスはフリーデリケの隣に腰を下ろした。気温も下がってきたのに、相変わらずの白衣だ。
「まあ、君の気持もわからなくはない。私も人間はそう好きではない。特におまえたち学生はうるさくてかなわん」
「……」
フリーデリケは沈黙したままだ。
「君のお父さん、マモン大公爵に連絡をするのは正直面倒だ。私が怒られることになるからね。それでだ、寮がそんなに嫌なら、私の家に来なさい、部屋は余っている」フリーデリケが顔を向けた。「その代わり、静かに。研究の邪魔をしないことが条件だ」
フリーデリケは頑なな態度を崩せない。
「君を探して、くたくただ。夕食にさっさとありつきたい。立ちたまえ」
ストロスはため息をつき、彼女の腕をつかんで立たせると、強制的に引っ張っていった。
「マモン様には黙っていてやる。だから、しっかり自分の足で歩け!」
フリーデリケは無言で一歩踏み出し、先生と並んで新たな家路に着いた。
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