第7話 セレスティアの憂慮

 朝日が差し込む城の廊下。メイド長たる天使セレスティアは、新人メイドのグレタに掃除の指導をしていた。その姿は、一見すると普通の人間のメイドそのものだった。

 しかし、セレスティアがこの城で働き始めてからすでに80年近くが経っていた。かつて幼き女王アンネリーゼを導くという天界からの使命を帯びてやってきたセレスティアだったが、思いがけない展開に見舞われた。

「私を指導するのであれば、まずはメイド見習いからはじめるんだ」

 そう言い放ったアンネリーゼの言葉に、セレスティアは戸惑いながらも従った。天使という立場を隠し、一介のメイドとして働き始めたのだ。

 それから月日は流れ、アンネリーゼの治世は終わり、その子、そして孫へと王位は引き継がれていった。セレスティアを迎え入れた当時のメイド長はもちろん、とうの昔に亡くなった。初めは、厳しい指導に恨めしく思ったものだが、葬式の日は涙を流した。そして城の中で彼女ほど長く仕えている者はいなくなった。そして彼女が天使であることは長く務め上げた者にしか伝えられなかった。

 現在、セレスティアは城で最も信頼されるメイド長となっていた。表向きには年齢を偽っているものの、その立ち振る舞いと技には連綿たる時間が染み込んでいた。

「シーナ、ここをこうやって拭くのよ」

 城の歴史を見守り続けてきた天使は、今日もまた、静かにその使命を果たしていた。

 しかし、時折セレスティアは自嘲気味に笑みを浮かべることがあった。天界の使者である自分が、人間界の掃除の達人になってしまったという事実に、何とも言えない滑稽さを感じずにはいられなかったのだ。

「まさか、天使が掃除の天才になるなんて……そうだわ!『達人メイドのお掃除マニュアル』って本を書くのはどうかしら?」と呟きながら、セレスティアは完璧に磨き上げられた廊下を見つめた。そこには彼女なりの誇りが詰まっていた。

 そして、思わず笑みがこぼれる。

「あら、これって歴史への干渉になるのかしら。掃除術の発展を百年早めてしまうかも」

 セレスティアは首を振った。

「でも、きっと天界も人類の清潔な暮らしには異論はないでしょう」

 グレタは真鍮の取っ手を磨きながら、少し躊躇いがちに口を開いた。

「あの、メイド長。噂なんですが……魔法が使えるとか」

 セレスティアは微笑んで首を傾げた。

「まあ、そんな噂があるの?あなた、入ったばかりだから担がれたのよ」

「そうですよねえ」グレタは頷く。「でも、掃除の腕前が尋常じゃないって!」

 セレスティアは軽く笑い、彼女の肩に手を置いた。

「それは私の長年の掃除の腕が、魔法のように見えるという例えよ。本当の魔法は、こういうことなの」

 彼女はキッチンから持ってきたレモンを取り出し、半分に切った。

「ほら、レモンと塩を使えば、真鍮もこのとおり」

 セレスティアはレモンの切り口に塩をつけ、曇った真鍮の表面を軽く擦った。瞬く間に、金色の輝きが現れ始める。

「わぁ!」グレタは驚きの声を上げた。「本当に魔法みたい!」

「そうでしょう?」セレスティアは満足そうに微笑んだ。「自然の力を知り、それを上手く使うこと。それこそが本当の魔法なのよ」

 グレタは熱心にセレスティアの手つきを観察し、真似しようとする。

「でも、メイド長はどうしてこんなにたくさんのことを知っているんですか?」

 セレスティアは遠くを見つめるような目をした。

「長い年月をかけて学んできたの。そして、様々な人との出会いから教わったわ」

 彼女はを人差し指を立て、グレタを諭した。

「いつか、あなたもきっと誰かにこの知恵を伝えることになるでしょう。それが、私たちの仕事の一つでもあるのよ」

 グレタが感極まった瞳でセレスティアを崇めると、廊下の向こうから人影が見えた。現女王であるシルフィーネ・フォン・ヴィッテルスバッハだ。アンネリーゼの孫にあたる。城では隣国の王子とのオシドリ夫婦ぶりで、城内に微笑ましい雰囲気をもたらしている。

 グレタが立ち上がり頭を下げる。女王は微笑み、セレスティアを手招いた。

「セレスティア、忙しいところ悪いけど、ちょっといいかしら」

 グレタは女王が腰を低くして、メイド長に接するのを見て驚いた。セレスティアは静かに言った。

「さあ、グレタ。もう一つ大切なことを教えるわ。時と場合によっては、見ないふりをすることも大切なの」

 彼女は少し混乱した様子だったが、ふたりを横目に覗きながら、静かに真鍮磨きを再開した。


 グレタから離れた階段の踊り場で、ふたりは窓から中庭を眺めるふりをしながら、小声で会話を始めた。女王の長身で、長く美しい艶のある髪からはかぐわしい香りがする。

「ふふ、セレスティア、うまくごまかしたわね」

 女王は微笑みながら言った。

 セレスティアは軽くため息をつく。

「やめてください、陛下。本当に魔法できれいできたら、私ひとりで足りてしまいます」

「あら、人件費が浮くじゃないの」

 女王は冗談めかして言ったが、すぐに表情が真剣になる。

「冗談はさておき、セレスティア。心配な話があるの」

 セレスティアも表情を引き締めた。

「教会の動きについてですか?」

 女王は小さく頷く。

「ええ。最近、異端審問の動きが活発になってきているようなの。特に、魔女の知識や悪魔の契約の疑いのある者たちへの取り締まりが厳しくなってきているわ」

「リリアンたちのことが心配です」

 セレスティアは静かに言った。

「そうなの、アンネリーゼ叔母様の頃とは違うわ。教会は力を欲してる」女王は深刻な表情で続けた。「彼女たちの存在が知られれば、宮廷の親たちも処罰の対象に。そして擁護している私たちにも、枢機卿が黙っていないでしょう」

 セレスティアは考え込むように言った。

「難しい立場ですね。繋がりがバレれば、民衆の王族への信頼も傾くわね。表向きは教会に協力しつつ、裏では彼女たちを守らなければならない」

 シルフィーネは視線を合わさずに、窓の外を見つめながら言った。

「そうよ。あなたの知恵を借りたいの、セレスティア。この危機を乗り越えられると思う?」

 セレスティアは少し間を置いてから答えた。

「まずは情報収集が重要です。教会の内部で誰がどう動いているのか、詳しく調べる必要があります。それと同時に、リリアンとヘルミーネに危機意識を持ってもらわないと」

「そうね」女王は頷いた。「でも、慎重に行動しなければならないわ。もし私たちの動きが教会に知られれば……」

「わかっています」セレスティアは断言した。「私が直接動くのは危険かもしれません。信頼できる協力者を天界から連れてきます」

 二人は再び窓の外を見つめた。

「で、?」

 シルフィーネが問いた。

「で、とは?」

 小声で答えるセレスティア。

「今夜のディナーのメニューよ!」

 セレスティアは大きなため息をつき、「仕事に戻ります」と冷たく突き放した。

 女王の冗談もセレスティアの心を軽くはできなかった。ルネサンスの文化の潮流がやってくる中で、不穏な分子がうごめき始めていることを憂慮するのであった。

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