第5話 想い出
5 想い出
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蛇口から水がしたたって、ポツ、ポツ、ボト、と音を立てているのが聞こえていたと思う。桜を散らす雨の日のノイズに混ざって、シンクに落ちる水音と、他人に触れられているような感覚の湿気、薄暗がり。
「母さん? こんな時間にどこ行くんだよ」
隼の質問に
「ここではない、どこかだ」
その瞬間、母はもうどこにもいないのだと思った。隼はそれ以上なにも言えず、それから彼女が姿を消して半年、一度も戻ってくることはなかった。
隼は「そんなものだ」を受け入れて、「その程度」を噛みしめることにした。
だけど時々、まだ残っている晶子の通話アプリのアカウントにメッセージを送る。
『for AKIKO:元気にしていますか』
既読のつかないメッセージが、こうして増えてゆく。
やはり、この世の中なんて、そんなものなのだ。
■
徴兵された人々の軍歴証明書の作成の方法はエクセルにまとめるだけだと聞いていたが、全国で三万人ほどの人間のデータ入力が任されている。一人ひとりのデータを入力するわけであって、名前、経歴、家族構成、簡単なプロフィールの入力は相当時間がかかる作業だと今になって理解した。
その間に、先日撮った動画の編集作業が入るわけだから、時間はあるようでない。
「首、いってえ」
薄暗い部屋の中、パソコンのキーボードから手を離して首の骨を鳴らす。プラスチックが折れるような音に、そろそろ休憩しなければならないと思う。しかし終わらないタスクはむしろ増える一方だった。
ひとまず隼はマウスを操作して、あの日撮影した動画を見返すことにした。
『化け物! 姉さんを返せ!』
動画の中で、秀人が叫んでいる。
『それは無理よ、かわいい弟くん。だって、もう、この体の持ち主は私なんだから』
葵の言葉が流れている。動画は揺れていて、うまく撮影ができたとは思えない。しかしあの状況でも逃げずに撮影を続けた。隼は、あの日の光景が頭から離れないままでいる。葵の言った、「この体の持ち主は私なんだから」が、特に頭の中でグルグルと回っていた。
ひとまず隼は体を椅子の背もたれに預け、スマホを手に取った。ネットニュースが流れてきている。
『異世界侵略は本当にあり得るのか。専門家による分析』
タイトルを見て、隼はため息をもらす。専門家って、一体誰だ。そもそも異世界転生者がこの世界の人間の体を乗っ取ることは世間ではもう当然の知識だ。しかし、身近に感じている人間は少ないだろう。ニュースだって、印象操作は得意のものだ。警告しつつ、肝心の真実からは遠ざける。
彼らはどうなったのか。
不意に疑問が浮かんだ。先日のあの事件以降、移送車に乗った彼らのその後を、隼は知らない。異世界転生者に体を奪われた葵と、その家族である秀人。他人事のようには思えない。
スマホが着信を知らせたのはそのときで、発信元は
『
軍部でも一般あがりの兵の隼にはまだ階級が言い渡されていない。記録係という立場が特殊とはいえ、どう反応するのが正しいのかわからず、「はい」とだけ返答した。
『先日同行した、特別捜査班の
おそらく、あの女性隊長のことだろう。隼はとにかくスマホを耳に押し当てた。
『守秘義務はあるが、例の件のことだそうだ。今すぐ時間を作って、特別捜査班の部屋に向かえ』
あの現場で言い返したことが、なにか問題になったのかもしれない。隼はわずかに頭痛がして目を細めて「わかりました」を言う。それから一拍後、
「あの、飯島さん。聞きたいことがあります」
少しの間あって、なんだ、と低い声があった。
「あのあと、彼らはどうなったんでしょうか。特に、
隼は言葉途中からなにを気にしているのかわからなくなっていた。
『それも含めての、話だそうだ。そう心配するな。悪い話ではない』
飯島の圧力のある低音から発せられた言葉は、予想外のものだった。なにやら、いい話でもないが、悪い話でもないらしい。
『わかったら、すぐにでも向かえ』
そう言って、通話が一方的に切断された。隼はスマホを耳から離し、今から気が重くなって体が椅子のスプリングに沈むのがわかった。再び体を背もたれに預ける。それから天井を見上げ、一気に脱力した。天井の素材の模様を見つめながら思わずつぶやいた。
「そんなもんだ、よな」
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