リュシオン岬 3
突然、視界いっぱいに光があふれた。
とっさにまばたきをしたロンは、光が消えた後の光景に息をのんでいた。
治療途中だったはずの、帆桁から転落した船員が、目の前から消えている。慌てて立ち上がり、医務室の中を見回す。他に、頭から血を流していた船員、船酔いがひどすぎて死人のように寝込んでいた船員もいたはずなのに、たった一瞬で自分以外の者が消え去っていた。
「ど、どうなってるんだ……」
突然の不可解な事態に、ロンは軽く混乱しながらも、慌てて医務室を飛び出した。
「誰か! 誰かいないのか⁉」
大声で叫びながら、船内を駆け回る。しかし、食堂にも船倉にも、人っ子一人見当たらない。
さらに不気味なことに、先ほどまで鳴り響いていた波の音や雨音も聞こえない。息の詰まりそうな沈黙の中、船は先ほどまで暴れ狂っていたのが噓のように静まっていた。
走り回るロンの靴音が、虚しく船内に響き渡る。船員を一人も見つけられず、ロンが息を整えようと足を止めたとき、その声は遠くから聞こえてきた。
「ロン……ン、シャ……ロン……
ロンの顔から、さっと血の気がひいた。目を見開き、信じられないという顔で、声が聞こえてきた甲板へと続く階段を見上げる。
「シャ……ロン、おい……おいで……」
ロンの体が震えだした。呼吸が荒くなり、そのこめかみをつぅと冷や汗が伝い落ちていく。
「うそだ……そんなはず」
ない、と口の中でだけ呟き、ロンはかきむしるように耳をふさいだ。爪が強く顔の皮膚に食い込み、血がにじむ。しかし、どんなに強く耳をふさごうとも、その声は彼の脳内で響き渡っていた。
「おいで、
ロンの足が、鉛の足かせをつけられているかのように、ゆっくりと一歩を踏み出す。まるで、処刑台に上る罪人のごとく、ロンは甲板への階段を上り始めた。
甲板に上がると、やはり船員は一人も見当たらなかった。現実味のない、灰色の海を見回す。風もなく、波間はそよともそよがず凪いでいたが、ロンの目には、はるか昔の記憶が鮮やかによみがえっていた。
先ほどまでこの船を襲っていたような、激しい嵐の海。山のように頭をもたげては、滝のように降り注ぐ波浪。その波間を流れていく、一冊の本。
本は頼りなげに、波に
(ちがう、あれは)
しかし、ロンの中には隠し切れない違和感が募っていた。何か、思い出したくないことを思い出そうとしている。
(あれは本ではない……あれは)
ひときわ大きな波に、本が押し流されて消えた。そして、次に波間から現れたものを見て、ロンの背筋が泡立つ。
それは、人の手だった。白い男性の腕と思われるものが、波間を漂いながら力なく伸ばされている。こちらに助けを求める様に手は虚空をかいていたが、再び襲い掛かってきた荒波にもまれ、すぐに見えなくなってしまった。
ロンは夢の中のように膝から崩れ落ちた。頭を抱え、目を見開いて同じ言葉をつぶやく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
突然、静まり返っていた船に、音がした。船尾の方で、何か重いものがずしゃっと、甲板に転げ落ちたような音。ロンの肩がびくりとはねた。
息をつめて耳を澄ませる。水分を多量に含んだ長靴を引きずるような音が、船尾から聞こえてきた。ずるずると、その不快な音はロンの背後から、少しずつ近づいてくる。ロンは身じろぎすることもできず、その音が近づいてくるのを聞いていた。
そして、音はロンのすぐ後ろで止まった。
「
その懐かしく、温かい声が聞こえたとき、ロンは頬に涙が流れるのを感じた。
ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、全身濡れそぼった一人の若い男だった。ロンが着ているのと同じ、胸元で重なった服を身に着け、足元には船乗りが履くような長靴を履いている。ぼろぼろにさけた服の袖から伸びる腕は、ぬらりと青白い。まるで、先ほど波間に消えた腕のように。そして、長くすだれのように張り付いた前髪からのぞく顔は、
自分と同じ顔が優しく笑むのを、ロンは震えながら見つめていた。
「やっと会えたね、私の可愛い
男の両腕が、ロンに向かってゆっくりと伸ばされる。ロンは、村人の言葉を思い出していた。リュシオン岬の先は、死者の国。そこでは自分が最も会いたかった死者に会える。そして、死に引きずりこまれる──
(そうだ、ここは、死者に会える場所。彼が私を連れて行こうとするのは、当たり前のことだ)
男の腕は、ロンの首元に伸びていく。
(父を殺したのは、私なのだから)
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