リュシオン岬 2


 村を出航したときには晴れ間が見えていた空も、大陸沿いに進みながらリュシオン岬に近づくほどに、不穏な気配を漂わせ始めた。

 風はどんどん強くなり、張り巡らされたロープを揺らしながら笛のような音を奏で始めた。晴れ間は厚い雲に覆い隠され、荒ぶる波間はかすみがかって、視界を妨げた。やがて、雨も降り始め、顔を濡らすのが波浪のしぶきなのか雨水なのかもはやわからない状況の中、船員たちは忙しく甲板を走り回っていた。


 ジャニはうねり狂う波間を巧みな舵さばきで潜り抜け、嵐からの脱出を試みていたが、帆が暴風を受けきれず、マストがぎしぎしときしみ始めるのを聞くと、船員たちに声を張り上げた。


「総帆畳帆!」


 帆をすべてたたみ、漂流しながら嵐をやり過ごすのである。ここまでひどい嵐だと、こうするほか手がないのであった。

 しかしこれは、船員たちにとって危険な行為でもあった。甲板から何十メートルも高い位置にある帆桁まで縄梯子を伝っていき、暴れ狂う帆布を帆桁にくくりつけなければいけないのである。もちろん、命綱などない。身一つで風が荒れ狂う中、いつ足元をすくわれるかわからない状態で、頼れるのは自分の腕だけだ。


 誰も帆桁から落ちないようにと願いながら、船員たちの作業を見上げていたジャニだったが、はっと表情をこわばらせた。一人の若い船員が、強風にあおられて体勢を崩したのだ。


「危ない!」


とっさに叫ぶと、ジャニは甲板に置いてあった予備の帆布を掴んで、船員のもとへと駆けつけた。


「パウロ‼」


 大声で名を呼ぶと、パウロははっとしたように振り向いて、素早くジャニの視線の先に目をやり、即座に状況を理解した様子で駆けつけてきた。パウロが引き連れてきた船員たちも集まり、ジャニの持つ帆布を皆でつかみ、うち広げる。

 帆桁にしがみついていた船員の体が、再び風に吹き飛ばされて落下した。危うく甲板にたたきつけられそうだった船員は、ジャニ達の広げた帆布にかろうじて捉えられ、一命をとりとめた。しかし、落下の恐怖がよほどひどかったのだろう、船員は白目をむいて気絶してしまっていた。

 やがて、呼ばれたロンと数人の船員たちによって、気絶した船員は医務室に運ばれていった。


 ジャニは自分の心臓が、早鐘のように打っていることに今さらながら気付いた。


(私の命令で、船員が一人死ぬところだった)


 純粋に、怖かった。改めて、皆の命を預かっている立場だということを実感させられた。


 そして、そんなジャニをあざ笑うかのように、嵐は一向に止む気配なく、むしろどんどんと強さを増しながら船に襲い掛かってきた。帆をしまい、もはや波浪のされるがままになっている船は、おそろしいほど揺れ動いた。ひっくり返りそうなほど上向いたかと思うと、次の瞬間には滝つぼを落ちていくかのように下向く。

 一番おそろしいのは、横波であった。船は、基本船首からの波には強いが、横波に弱い。強烈な横波に襲われると、船は今にも転覆するのではないかという勢いで傾いた。さらに、山のように頭をもたげた波浪が、流れ落ちる滝のように甲板になだれ込んでくるのだ。

 皆、波が襲い掛かる寸前にロープやマストにしがみついてやりすごしていたが、誰か流されるのも時間の問題であった。

 ジャニははたと思いつき、近くにいたテイラーに声を掛けた。


「テイラー! 例のもの、出来上がってる⁉」

「もちろん、船長に言われてすぐ、作っておきましたよ!」


 テイラーはその整った顔をほころばせると、船内に駆け込んでいき、やがて帆布を張った大きな凧のようなものを手に戻ってきた。それを見たメイソンが、驚いたようにうなる。


「シーアンカーか! ぬかりねぇな」


 珍しくメイソンに褒められて、ジャニは思わずふふんと鼻を鳴らした。


「風浪が激しいっていうのは村の人たちから聞いてたからね、一応用意してもらってたの」


 テイラーとジャニは、その凧を船首から海に放り投げ、凧から伸びたロープをバウスプリットにしっかりと固縛した。

 このシーアンカーとは、空ではなく、海の中を泳ぐ凧である。この凧が水面下で直立し、ブレーキの役割を果たして、船の先端を誘導してくれるのだ。そのおかげで、船は常に風上を向くようになり、危険な横波から守られる。

 ジャニは裁縫が得意なテイラーに設計を指示し、シーアンカーの作製を頼んでいた。リュシオン岬攻略にあたり、念のため準備しておいたのが功を奏した。

 実際に、船の揺れが幾分収まったようである。船員たちの張り詰めていた顔にも明るさが戻り始めた。


(やった、うまくいった!)


 ジャニは誇らしさに胸をふくらませたが、その喜びはすぐにつぶされることとなった。

 あまりの風浪とうねりの強さに、シーアンカーをつないでいたロープが切れてしまったのだ。

 再び船は荒れ狂うように揺れ始めた。甲板をよろめきながら進み、切れたロープを確認したメイソンから、お叱りの言葉が飛んできた。


「こんなやわっちいロープで持ちこたえられるわけねぇだろう! まったく、作った奴も確認した奴もひよっこじゃぁ、しょうがねぇな!」


 テイラーとジャニは顔を見合わせ、思わず肩をすくめた。やはり、初めてのことは想定通りにはいかないようだ。


「俺が作ってやる! よぉく見てろ」


 そう言って、波しぶきが襲い掛かり、体が転げてしまうような揺れの中、メイソンが不平不満を垂れながら作ってくれた新しいシーアンカーは、ちぎれることなく船の揺れを軽減してくれた。


 船は、濁流に放り込まれた木の葉のように翻弄されながら、波間を漂っていく。しかし、不思議なことに、船はもみくちゃにされながらも、リュシオン岬に少しずつ近づいているようだった。

 足場が少し安定したことで、周りを見回す余裕が出てきたジャニは、靄がかった海原の向こうから、巨人のような黒い影が近づいてくるのを見つめていた。

 踏み入れるものを拒むような、切り立った崖。恐ろしい怪物を連想させる奇岩が、まるで海を裂くように突き出している。その周りには岩礁が槍を構える番兵のごとく突き並び、こちらを威嚇していた。あそこに船が乗り上げたら、間違いなく一瞬で海の藻屑と化すだろう。


(これが、リュシオン岬……)


 畏怖に胸が震えるのを感じながら、ジャニはごくりと生唾を飲み込んだ。まだ、船と岬との距離は十分ある。座礁する可能性は低いが、それでも舵を握る手には力が入った。

 雨足が強くなってきた。くっきりと全貌が見えていた岬の岩影が、たたきつけるような雨と波浪にかすんでいく。危険な岩礁を見逃すのではないかと、ジャニは眉間に力を入れて目をこらした。驚異の視力を誇る彼女の目でも、この視界の悪さには敵いそうにない。

 どんどん悪くなる視界に耐えられず、ジャニは右目を覆い隠していた眼帯を乱暴にはぎ取った。

 その時だった。ジャニの右目に、金色の光がちらついた。


(またか……!)


 こんな時に、と思いながらも、ジャニは無意識にその光を目で追っていた。舵を操りながら、左目を瞑って右目に意識を集中させる。

 蝶の鱗粉のように、光は軌跡を描きながら、荒れ狂う波間を進んでいく。暴風にも流れることなく、光は空へと昇っていき、リュシオン岬の上空に垂れ込める雨雲に吸い込まれていった。

 その雨雲は、まるで空に浮かぶ大陸を覆い隠しているかのように、厚く堅牢だった。空などかけらも見えない。人間たちのいる下界と、神々のいる空の世界を両断するかのような、圧倒的な存在感。

 そしてその雲間に消えた光を見送ったジャニは、目撃した。消えたと思った光が、まるで滝のようにあふれ出し、海に降り注いでいくのを。


「なに、あれ……」


 それは、リュシオン岬から海のかなたにかけられた、巨大な光のカーテンのようだった。その金色の光でできた幕は、岬の向こうを遮るように、ジャニ達の前であやしげに揺らめいている。


「パウロ、あれ見える⁉」


 人知を超える光景に声を震わせ、ジャニが空を指さして叫ぶと、パウロは彼女が指し示す方を見て、表情を険しくした。


「あぁ、だいぶ雲が厚いな。この嵐はしばらく消えそうにないぜ」


 ちがう、と口に中で呟き、ジャニは舵をぎゅっと握りしめた。やはり、彼にはあの光のカーテンが見えていないのだ。これは、ジャニの右目だけが捉えている光景だ。ほかの船員たちにも、あれが見えている様子はない。皆、船を沈めようとする嵐に対処するので精いっぱいだ。


(あの光の向こうには、何があるのだろう)


 ジャニは、村で聞いた恐ろしい話を思い出していた。岬の先に待っているのは、紅蓮に燃え盛る海。永遠に流れ落ちる巨大な滝。世界の終わり。そして、死者に会える世界。


(本当に世界が、あの向こうで終わっていたとしたら)


 ありえないと思いながらも、そんなことを考えてしまう。

 船は、まるで吸い込まれていくように、ぐんぐんと光の幕に向かって突き進んでいく。もう、退くことはできない。ジャニは息をつめて、空からかけられた巨大な光のカーテンに、船が突き進んでいくのを見つめていた。

 そして、その幕がふわりとうち広がり、抱き込むようにジャニたちの船を包んだ。眩い光に視界を奪われ、思わず目を閉じる。光が遠ざかるのを感じ、恐る恐る目を開け──


「え……⁉」


 ジャニは思わず、わが目を疑っていた。

 甲板から、すべての船員が消えていた。まるで、光の幕に全員さらわれてしまったかのようだ。しかも、音が消えてしまっている。波の音も、風の音も、先ほどまで響き渡っていた甲板をたたきつける豪雨の音も、それらの存在も消え失せた。

 何もない。海は鈍い灰色に沈み、風はそよとも感じない。誰もいない甲板で、耳鳴りのしそうな無音の中で、ジャニは舵をにぎりしめたまま、呆然と立ちすくんでいた。







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