リュシオン岬 1


「あっこにはな、“世界の終わり”があるだけじゃて」


 老いた漁師の男は、そう重々しく答えると、黄色く濁った目を見開いてジャニを見つめてきた。


「あの岬の先には、なんもない。煮立った紅蓮の海が広がっとるだけじゃ。人間が踏み込んでいい場所じゃないんじゃよ。わしの仲間も、もう何人もあっこで死んどるわい」


 そう言って岬がある方角に目をやる男からは、心からの恐怖が伺えた。

 ジャニたちは物資を買い入れるため、ミュスメルの西方に位置する、この小さな漁村に寄港していた。港とは名ばかりの、小さな桟橋があるだけの村だが、住人達はとても親切で、資材や食料や酒を快く売ってくれた。彼らにとって、相手が海賊であろうとまっとうな商人であろうと、取引をしてくれるならば特に大した違いはないのだろう。


 ついでに、これから向かうリュシオン岬の情報を仕入れようと村人に聞いて回ってみたのだが、返ってくるのは老漁師と同じように、岬に向かうジャニ達を止めようとする言葉ばかりだった。または、岬を超えた海がどれほど荒々しく恐ろしいか、どれほどの知人があそこで命を落としているか、という気の重くなるような話ばかり。


 そして皆、最後には同じことを言う。


 老漁師の、何本か歯が欠けた口元がもごもごと動き、自分に言い聞かせるように呟いた。


「あっこでは、自分が心から会いたいと望む死者に会えるんじゃよ……。じゃが、代わりに命を奪われる。死んだ者に引きずり込まれるんじゃ。自分たちを一人にしないでくれ、仲間になれってなぁ。わしも、死んだばあさんには会いたいが……」


 そこで言葉を区切り、その後小さく「まだ死にたくないけぇ」と呟く老漁師の声には、どこか哀愁が漂っていた。


「まぁ、こんな小さな村に住んでいたら、そういう寓話みたいな話も、信じるしかないのかもな」


 老漁師に礼を言って背を向け、船の方に帰る道すがら、パウロがそう呟いた。ジャニはその言葉に、黙って頷く。

 あの夜の口論以降、二人は何事もなかったかのようにふるまっていたが、ジャニの胸中では、パウロに家族のような仲だと思っていたことを否定された怒りや悲しさが、まだ熾火のようにくすぶっていた。


(今まで、私はパウロに甘えすぎていたのかもしれない)


 そんな思いも浮かんでいた。昔から面倒見のいいパウロにあれやこれやと世話を焼かれていたから、無意識のうちに彼を頼るようになってしまっていたのだ。これからは船長として、誰に頼ることなく、みんなを引っ張っていかなければならない。そう気持ちを高ぶらせるジャニだったが、そんな自分をちらりと盗み見て、パウロが小さくため息をついたことには気付いていなかった。


「ちょっと俺、もう少し情報収集してから船戻るわ」


 ふいに、パウロがそう言ってジャニに背を向け、村の方に歩いて行ってしまった。その背中を見送り、なんだかわずかに寂しさを覚えながらジャニが船に戻ると、ケンプ率いる筋骨隆々とした若手たちが、買い入れた物資を船に運び入れているところだった。


「荷運び、ご苦労様」


 ちょうどすぐ横を通りかかったケンプに声をかける。しかし赤髪の若者は、ジャニを見た途端舌打ちをして視線をそらし、何も言わずに通り過ぎていった。

 ジャニとの飲み比べに負けてからというもの、ケンプはジャニの指示に背くことはないものの、ずっと苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。ジャニが話しかけても、今のように無視をするか、あからさまに避ける。まさか自分が一回りも小柄な女性に飲み比べで負けると思っていなかったのだろう、自尊心を大いに傷つけられ、拗ねている様子だ。


「ま、あぁいうやつはほっとくのが一番さ」


 二人のやりとりを傍から見ていたメイソンが、そうジャニに声をかけてきた。彼の肩の上では、彼のペットである小猿のロビンが、村人からもらった干し果物を無心でかじっている。


「それはわかってるけどさ。やりにくいったらないよ」


 思わずそう愚痴るジャニに、メイソンは意地悪く口の端を釣り上げて見せた。


「じゃぁさっさと船長なんかやめちまえ。お前みたいなひよっこが船長なんて、百年はえぇんだよ」

「ふんっ、絶対やめないし、やりきってみせますよーだ!」


 んべっと舌をつきだし、ジャニは船に乗り込もうとしたが、ふと真顔に戻ったメイソンに呼び止められた。


「ジャニ。ロンのことなんだが、ちょっと様子が変だぞ」


 ジャニはハッとした顔で、メイソンを振り返った。


「やっぱり、メイソンもそう思う?」

「あぁ。出航してからずっとぼーっとしてやがる。やっこさんにしては珍しいな」


 メイソンは愛おしそうにロビンの頭をなでながら、思案気なまなざしをジャニに向けてきた。


「ちょっと、話聞いてみちゃくれねぇか」

「うん、わかった」


 ジャニは今度は素直にうなずいて、船に乗り込んだ。

 ジャニも、ロンのことは気になっていた。バルトリア島を発ってからというもの、ロンはずっと、どこか心あらずのことが多かった。いつも冷静沈着な彼らしからぬ様子に、仲間たちも不安を抱いているみたいだ。


(そういえば、ロンはクックに船出を命じられた時、「私には無理だ」って言ってたな。“リュシオン岬”を超えられないって)


 リュシオン岬の噂を恐れているのだろうか。だが、ロンは現実主義者だ。自分の目で確かめない限り、そういった噂を鵜吞みにするような人物ではない。

 ジャニはふと、ロンは岬を超えたことがあるのではないだろうかと思った。ロンの見た目は、岬を超えてさらにはるか東にある、チェン国の者のそれだ。彼は以前はチェン国に住んでいて、何か理由があってバルトリア島にたどり着いたのではないだろうか。その際、リュシオン岬を超え、何か恐ろしい体験をした……?

 ロンのいる医務室の扉をたたく。少し待っても返事がないのでジャニがそっと扉を開けると、ロンは机に座ったまま、焦点のあっていない目で壁の一点をじっと見つめていた。


「ロン、大丈夫……?」


 恐る恐る声をかける。ロンはハッと我に返ると、心配そうな顔をしているジャニに視線をやり、無理やりな笑顔を浮かべて見せた。その目元には隠し切れないクマが浮かんでいる。


「ジャニ、どうしたんだい? そろそろ出航かい?」

「いや……最近、ロンが元気ないから、ちょっと気になって。何か、心配事? ちゃんと寝れてる?」


 ロンは不意を突かれた顔をしたが、やがて申し訳なさそうに眉を下げた。


「そうか、心配かけてすまない。実は……最近夢見が悪くてね。お察しの通り、あまり眠れていない。医者失格だな」


 はは、と弱弱しく笑うロンに、ジャニはためらいながら問いかけた。


「あのさ、ロンは昔、リュシオン岬を超えたことがあるの?」


 ロンの顔が、さっと強張った。その表情が答えだった。


「そこで、何かあったの?」


 ジャニが重ねて聞くと、ロンは視線を落として、手元にある読み途中の医学書を見つめた。彼は本に手を滑らせながらしばらく黙っていたが、どこか自分に言い聞かせるように言った。


「心配かけてすまない。だけど、私は大丈夫だよ」


 ロンの黒い瞳が、井戸の底のように、昏い影をまとっている。


「大丈夫。私たちはリュシオン岬を、超えられる」






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