悪あがき 2


「……んん?」


 ぱか、と目を開けたジャニは、しばらくぼんやりと、船長室の天井を見上げていた。なんだかかすみがかったように頭が働かない。

 いつのまに船長室に移動したんだっけ、と考え、そういえば、自分はケンプたちと飲み比べをしていたのではなかったか、というところまで記憶をさかのぼり、ジャニは慌てて飛び起きた。しかし、頭をハンマーで殴られたかのような痛みに襲われ、思わず倒れこむ。


「いったぁぁぁ」

「あんな馬鹿みたいに飲むからだ」


 寝台の横から、不機嫌極まりない声が聞こえてきた。頭痛をこらえながら視線をやると、椅子に長い脚を組んで座ったパウロが、なにやら険のある目つきでこっちを見ている。


「……な、なんか、怒ってる?」


 いつも優しくふんわりとした彼とはギャップのある表情に、ジャニは戸惑いながら尋ねていた。彼を怒らせるようなことをした覚えはないのだが。

 パウロは腹の底から吐き出すようなため息をつくと、手に持っていたコップを寝台の横の棚に音を立てて置いた。コップの中に入った水が、船の振動にあわせてゆったりと揺蕩たゆたっている。


「飲め」


 有無を言わせない彼の言葉に、ジャニは素直に従ってコップの水を飲みほした。ぐらぐらしていた頭が少しすっきりする。


(あぁ、そうか。船長なのに、酔いつぶれるまで飲んだことを怒ってるんだな)


 ふと合点がいき、ジャニは身を縮ませた。だとしたら怒られてもしょうがないと思ったのだ。正直、自分の酒の強さには自信があったのでたかをくくっていたのだが、思っていたよりケンプがしぶとかった。ここまで無理をする必要に迫られるとは思ってなかったのだ。

 いつ何が起こるかわからない海の上で、前後不覚になるまで飲んでしまったのは、確かに船長としてあるまじきことだった。さて、何と言われて怒られるのだろうと、ジャニが殊勝に項垂れていると、パウロが口を開いた。


「お前は、自分が女だっていう自覚がなさすぎる」

「……は?」


 予想外の言葉に、ジャニがぽかんと呆けた顔をする。しかし、パウロの顔は真剣そのものだ。


「船長として認めてもらうためだとしても、なんで飲み比べなんか受けるんだよ? しかも自分が負けたら何でも言うことを聞くだなんて……本当に負けてたらどうするつもりだったんだ⁉」


 言いながら腹が立ってきたのか、パウロの語気は荒くなっていく。


「翼獅子号のみんなは、お前を我が子みたいに思ってるからいい人ばっかりだけどな、男が全員人畜無害だと思うなよな! もっと警戒しろ! そうやって、男物の服着て、剣を振り回しててもな、お前はあいつらから見れば、街の女たちと変わらねぇんだよ! お前はどうやったって、男にはなれないんだから」


 パウロのその言葉は、ジャニの胸の奥深いところを強く突いた。自分は、どうやったって男にはなれない。そんなことわかっていた。わかっているつもりだった。しかし、それを目の前に突き付けられると、女であることを心のどこかで引き目に感じている自分を否応なく自覚させられ、ジャニは怒りがわきだすのを止められなかった。


「なんでそんなこと言うの⁉ なんで……パウロにそんなこと言われなくちゃいけないのさ!」


 ジャニは腹が立つのと同時に、悲しかった。パウロにだけは、そんなことを言われたくなかったのだ。彼と自分は、兄弟同然の間柄だと思っていたから。自分を男と同等とみてくれる、絶対に自分を裏切らない相手だと思っていたから。

 ジャニの口調も、つい剣呑なものになった。


「船長としての自覚が足りないとか、そういう小言ならいくらでも聞くよ。でも、そんな馬鹿らしいことで怒られるのは納得いかない!」

「馬鹿らしくなんかない!」


 しかし、いつもだったらすぐ「ごめん」と謝って先に折れてくれるパウロが、今日は怒りを収めようとしない。普段優しく垂れている彼の目は、怒りとわずかな焦りのようなもので吊り上がっていた。


「お前が昔から、女である自分を受け入れられないのはわかってる。だけどな、それは逃れようがない事実なんだ。お前がどんなに強くても、頭がよくても、それを知らずに、見た目だけで女だと侮るような男たちは五万といる。だから」


 パウロの顔が苦しそうに歪んだ。


「お願いだから、“何でも言うことを聞く”だなんて、自分のことを軽んじるようなことは気安く言わないでくれ。相手によっては、変な意味で受け取りかねない」


 ジャニは言葉に詰まった。確かに、自分は軽い冗談のつもりで、しかも負ける気はさらさらなかったからそんなことを口走ってしまった。しかし、パウロにはショックな言葉だったようだ。


「わかった。ごめん、もう言わない」


 そう謝罪したものの、ジャニはやはり釈然としない想いを隠せなかった。


「……だけど、もしそうやって変な意味でとるやつがいても、私はそいつに負けたりしない」

「本当に、そう思うか?」


 パウロの目が、まっすぐジャニを射抜いた。彼の手がすっとのび、ジャニの両手を掴んだ。顔の横に手を持ち上げ、ぐっと押してくる。ジャニは慌てて押し返したが、パウロの力が強くて押し返せない。いつもの訓練だったら迷うことなく力を逃して彼から逃げられるのに、なぜかジャニは、それができなかった。パウロのハシバミ色の瞳から、目をそらせない。


「訓練の時みたいに、身構えているときならお前にかなうやつはいないと思ってるよ。だけどな、とっさに男に襲われたら、歴然とした力の差がある。お前でも、敵わないかもしれない」


 パウロの腕の力がどんどん強くなる。ジャニはふと、彼に対して感じたことのない恐怖を覚え、とっさに腕の力を緩めてしまった。力の均衡が突如崩れ、二人はもつれあうように寝台に倒れこんでいた。

 二人の視線が間近で交差する。パウロの顔に、さっと焦りの表情が浮かんだ。


「わ、悪い。すぐどくから……」


 パウロは慌てて身を起そうとしたが、ふいにジャニに襟首をつかまれ、引き戻された。


「お、おい何するんだよっ」


 しかしジャニは無言のままパウロの顔を引き寄せると、そのまま背筋を反り返らせ――彼の額に渾身の頭突きを食らわせた。


「いっでぇぇぇえええ!」


 寝台から床にもんどりうって倒れこんだパウロが、額を抑えてごろごろと悶絶している。立ち上がってそれを見下ろしながら、ジャニは形の良い目を吊り上げて怒鳴っていた。


「私をか弱い女扱いしないで! 私はあんたの弟だろ⁉ なんでそんな、どうでもいいふざけた心配なんかするんだよ! 余計なお世話だ!」


 心臓が、自分の耳にも聞こえるほど激しく打っている。なんだか説明のできない激情にかられ、ジャニは両手を震えるほど強く握りしめていた。

 パウロはややふらつきながら立ち上がると、少し後ろめたそうな顔で、苦しそうに吐き捨てた。


「俺は、お前のことを弟だなんて思ってない」


 ジャニの中で、炎が燃え上がるように怒りがわいた。同時に、心が凍てつくように冷えていく。

 彼から、その言葉だけは聞きたくなかった。ジャニには両親も、兄弟もいない。いるのは今生の別れをつきつけた、イグノア海軍総督の祖父だけだ。

 だから、ジャニは家族にあこがれていた。翼獅子号の仲間たちも、船で出会ったときから兄貴分として自分を導いてくれたパウロも、ジャニにとっては大切な家族も同然だった。それなのに。


(だって……パウロが言ったのに。『お前は俺の弟だからな』って。そう言ってくれたのに)


 じわりと涙がにじんでくる。それをパウロに見られたくなくて、ジャニはさっと顔をそむけた。


「さっさとここから出てけ! これは命令だ!」


 有無を言わせない口調でそう叫ぶと、ジャニは完全にパウロに背を向けた。

 背後で、パウロが少し逡巡する気配があったが、やがて何も言わずに部屋を出ていった。船長室のドアが閉まる音が、虚しく部屋に響き渡る。

 ジャニは無意識に、自分の腕をかき抱いていた。先ほど寝台に倒れこんだ時、パウロのずっしりと重たい体が、自分の体にのしかかってきた感覚が残っていた。間近で見たパウロの目が、吐息が、脳裏から離れようとしない。

 もう彼は、弱虫でやせ細った、そばかすだらけの少年ではないのだ。


「……パウロのバカっ」






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