悪あがき 1


 そこは、船の上だった。海はひどく荒れており、甲板に容赦なく波がたたきつけ、まるで巨人の手の様に船上のものを根こそぎ奪っていく。


 そんな中で、ロンは一人たたずんでいた。冷え切って、おびえて、体は抑えようもなく震えている。もうこんな嵐など、何度も経験しているはずなのに、彼の体はどうやっても動こうとしない。

 そして彼の目は、釘づけにされたかのように、ある一点に注がれていた。

 海の上を、一冊の古びた本が流れていく。この船から奪われてしまったものだろうか。唐綴からとじの装丁で、バルトリア島ではなかなか見られない、遥か東の国のものだとわかる。ロンの、故郷の本。


(あぁ、駄目だ)


 ロンはどうしても、その本を取り戻したかった。恐ろしい口を開けて自分を飲み込もうとしている海に飛び込もうとも、死に物狂いで泳いで、その本を手にしたかった。しかし、依然として体は動こうとしない。生気が抜けてしまったかのように、全身が腑抜けている。

 何か、とてつもなく大切なものを失ったのだ、自分は。あの本は、それほどまでに貴重なものだった。守らなければならないものだった。失ってはいけないものだった。

 言いようのない絶望が、ロンの胃のを燃やすように這い上ってくる。頬にとめどなく涙が流れている。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 呟いている声は、まだあどけない、幼い子供のものだ。ロンは、たまらなく苦しくなった。


(嫌だ、ここから、逃れたい)


 潮騒が耳の奥で遠くなっていく。流されていく本も、さらに遠くなっていく。もう、二度とあの本を手に入れることはできない。


「ごめんなさい……!」


 くずおれる様にその場に倒れこみ、視界が暗転した。心臓が一瞬、嫌な跳ね上がり方をし、ロンは大きく息をついて飛び起きた。

 どうやら、夢を見ていたようだ。首筋を濡らすじっとりとした汗を手でぬぐいながら、ロンは深呼吸して息を整えた。いつの間にか、医務室の机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。バルトリア島を出港してから、ほぼ休みなく操船作業にかかっていたため、体に疲労がたまっていたのだろう。

 なんだか、嫌な夢を見た気がする。もう夢の記憶は、すくい上げた手から零れ落ちる砂の様に消えていたが、どくどくと脈打つ鼓動はなかなかおさまらなかった。

 その時、遠慮がちに医務室の扉をノックする音が背後でした。振り向くと、何やら困ったような顔のテイラーが入ってくるところだった。ロンの顔を見て、彼は美麗な眉をひそめる。


「ロンさん、大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ」

「あぁ、問題ない。それより、どうした? 怪我でもしたのかい?」


 テイラーは軽く首を振り、困り顔で笑って見せた。


「違うんですよ。この船の酒がすべてなくなっちゃいそうなんで、そろそろ止めていただきたくて……」

「まだやってるのか⁉」


 ロンは驚きの声をあげ、ため息をつきながら腰を上げた。テイラーに連れられて船の食堂に入ったロンは、中の様子を見て頭を抱えたくなった。

 食堂の中央に置かれた机に、ジャニと一人の男が向かい合わせで座っている。二人はそれぞれの手にジョッキを持ち、そこになみなみと注がれたラム酒を今まさに同時に飲み干すところだった。二人とも、もうだいぶ酔いが回っている様子で、顔は赤らみ、目は据わっている。

 そして、彼らの周りには、酔いつぶれてしかばねの様になっている男たちがいたるところに転がっていた。倒れている男たちをしり目に、ジャニと男の飲み比べを観戦している仲間たちは、二人の飲みっぷりを称賛したり、げきを飛ばしたり、騒がしいことこの上ない。


「どう? もういい加減降参したら?」

「バカ言え! わしゃぁこっからが本番じゃ!」


 挑発するジャニに向かって、若い男は若干ろれつの回らない口調で、それでも威勢よく応じる。

 彼の名はケンプという。ジャニより二歳年上の青年で、半年ほど前にバルトリア島に移住してきた。今回の急な船出にあたり、体格の良さと腕っぷしの強さを見込まれ船員に駆り出された、翼獅子号の仲間としては新参者の若者である。

 背はパウロほどではないが高い方で、体つきは頑健で筋肉質。それを誇示するような露出の多い服を着ていて、肌はよく日に焼け、赤銅色の髪を短く刈り込んでいる。  髪と同じ赤い目は大きく、野生の猫の様に吊り上がっていて生意気そうだ。今もジャニを打ち負かそうと、闘争心に燃えて爛々と輝いている。


 この飲み比べの発端は彼だった。


 危機一髪、バルトリア島を脱出してアリスタル帝国への航路をたどり始めた船内で、改めて船員たちの役職を振り分ける時間が設けられた。

 それを発表するのは、もちろん船長のジャニの役割である。パウロと相談して決めた役職を、食堂に集まった船員たちに告げているときだった。役職をジャニから言い渡されたケンプが、おもむろに「つぅか」と苛立たしそうに口を開いたのだ。


「わしは、こがいな若い女の船長に従うのは嫌じゃ」


 彼の一言に、その場は水を打ったように静まり返った。ロンは思わず口に手をやり、パウロは目をひん剥いてその場に固まった。ジャニをよく知る翼獅子号のメンバーは皆、凍り付いたように身をこわばらせたが、目だけ動かしてジャニの様子を恐る恐るうかがっていた。

 彼女は特に怒る様子もなく、ケンプをじっと見返した。


「若い女で悪かったね。でも、これはクック船長の采配だから」

「それが気に食わん! 普通は全員で投票して船長を決めるもんじゃ」

「そんな悠長なことしてる時間なんてなかったじゃない。今回は緊急の船出だったんだから」

「わしはてっきり、ロンの旦那が船長だと思ったからこの船に乗ったんじゃ。バルトリア島を守るための航海と聞いたけぇ勇んで参加したのに、クック船長はなんでこがいなちんちくりん女を船長なんかに選んだんじゃ! 理解できん。われなんかに船長が務まるもんか!」


 ケンプは独特な訛りのある言葉でそうまくしたてると、自分と同じように急遽船員となった若者たちに声を掛けた。


「なぁ、われらもそう思うじゃろ⁉」

「そ、そうだそうだ! 女の船長なんて聞いたことねぇ!」

「ロンさんが船長になるべきだ! 船長を投票で決めなおせ!」


 ケンプの取り巻きのような若者たちも、同調して声を上げ始めた。彼らは皆、翼獅子号の船員として船出した経験はごく浅く、毎日ジャニとパウロが参加している訓練にも参加したことがない。ジャニがどれだけ、船長になるために血のにじむような努力を積み重ねてきたか、翼獅子号の古参メンバーであればだれもが知っていたが、彼らはその歴史を全く知らない。突然、自分より若い小柄な女性が船長を任されている船に放り込まれ、ここにきて不満が爆発したらしい。


 ロンは何か言いかけたが、思い直して口をつぐんだ。今ここで、自分が下手にジャニを擁護えんごするようなことを言えば、ケンプたちの不満は嫌でも増すだろう。ここは、ジャニが自分で対処するしかない。

 ケンプの挑発に、ジャニが爆発して乱闘騒ぎにでもなるのではないかと危ぶんだロンだったが、ジャニは悠然としていた。何か思案するような顔で、小首をかしげてみせる。


「まぁ、私も船長を任されたのは今回が初めてだし、女船長なんて前例がないから、みんなが不安になるのもわかるよ。手っ取り早く手合わせでもできれば、私もそれなりに戦闘能力があるってことを教えられるんだけどなぁ。残念なことに」


 ジャニは軽く肩をすくめて見せた。


「掟で、船内での乱闘は禁じられてる。あなた達が私を船長だと認めてくれるほかの方法があればいいんだけど」


 そこでわざとらしく、彼女は困ったようにケンプを上目遣いで見た。


「何か提案がある?」

「そうじゃなぁ」


 ケンプはぐるりと目を回して考え込んでいたが、何か思いついたようにパッと顔を輝かせた。


「ほいじゃぁ、飲み比べで勝負しようや!」


 ロンは思わず額に手をやった。この威勢のいい若者の思いつきそうなことだが、なぜ酒の飲み比べで優劣をつけようとするのか。ロンには到底理解できなかった。しかし、ケンプの取り巻き達も賛成の声をあげている。


「いいじゃねぇか、そうしようぜ! ケンプとかわいこちゃんの一騎打ちだ!」


 その時、ジャニが一瞬にやりとほくそ笑んだのを、ロンは見逃さなかった。


「いいわよ。飲み比べ、乗ってあげる。一騎打ちと言わず、私が船長であることに意義のある人全員と対戦しようじゃないの。私が負けたら、もちろん船長を辞退するし、なぁーんでも言うこと聞いてあげる」


 ジャニが思わせぶりなセリフを吐くと、若者たちが何を想像したのか顔を赤らめて鼻息を荒くした。はらはらとことの成り行きを見守っていたパウロが、さすがに見かねて声を荒げる。


「おい、ジャニ! やめろ!」

「その代わり!」


 ジャニはパウロの制止の声を遮り、ぐるりと若者たちの顔をねめつけた。


「私が勝ったら、今後は四の五の言わず、私の命令に従いなさいよね!」

「ええじゃろう、その勝負乗った!」


 ケンプは余裕しゃくしゃくの笑顔を浮かべて承諾した。

 さっそく皆で食堂に移動し、樽ごと酒が用意され、ジャニと若者たちの飲み比べ合戦が始まった。そして、現在のこのありさまというわけである。


 二人の周りで転がっている男たちは、ジャニに完敗した若者たちだろう。だから飲み比べなんてやめておけばよかったのにと、ロンは肩をすくめるしかなかった。

 なんせジャニは、めっぽう酒に強いのだ。あの細い体のどこにこの大量の酒を消化する機能が備わっているのだろうと、ロンはいつも不思議に思う。それを知らずに、小娘と侮って飲み比べを持ち掛け、返り討ちにされた男たちを何人も見てきた。


(まったく、あの子は。我が弟子ながら末恐ろしい)


 その時、二人の戦いに動きがあった。


「うぉ? くそっ、目がまわるぅ」


 ジョッキを樽の注ぎ口に持っていこうと立ち上がった瞬間、酔いが一気に回ったようだ。ケンプの顔が真っ赤から突如真っ青に変わったかと思うと、白目をむいて後ろに倒れこんでしまった。


「勝負あったな!」


 にしし、と意地悪い笑みを浮かべて、メイソンがジャニの腕を取り、高々と掲げて見せる。それを見ていた仲間たちからは、拍手喝さいが送られた。


「やれやれ、とりあえず、騒ぎは収まったかな」


 ケンプに駆け寄り、脈などを測って命に別条がないことを確認すると、ロンはほっと息をついた。これで約束通り、ケンプを筆頭とする若い衆がジャニの命令にちゃんと従えばいいのだが。


「女だからって、にゃめんなよ!」


 ジャニがどや顔でそう言ってジョッキを掲げているが、完全にろれつが回ってない。さすがに、彼女もだいぶ酔っている様子だ。

 すぐ近くで彼女を見守っていたパウロが、ものすごく不機嫌そうな顔でその手をつかんだ。


「ジャニ、さっさと船長室行って寝ろ。もう限界だろ」

「なによぉ、私に限界にゃんてないんだからぁ!」


 そう言いながら、パウロを見た途端、ジャニの目がとろんと眠そうに細められた。体もふらふらと揺れていて、今にも倒れこみそうだ。パウロは大きくため息をつくと、問答無用でジャニの体を掴んで持ち上げ、肩に担ぎあげた。


「ちょ、ちょっと何するのぉ!」

「どうせ歩いていくの無理だろうが。じっとしてろ」


 ジャニも最初は弱弱しく抵抗していたが、そのうち無理だと悟ってパウロに体を預け、まどろみはじめた。彼らのそんな姿は幼少期からよく見ていたので、ロンやメイソンなどの古参メンバーはほほえましく二人を見送っていたが、新参者たちは違った。

 ひゅうっと甲高く口笛を吹いたかと思うと、負けた腹いせか、わざと皆に聞こえるように野次を飛ばしてきたのだ。


「いいねぇ、これから船長室でお楽しみってわけかい?」


 突然、銃声とガラスの割れる音が響き渡った。野次を飛ばした若者の持っていたジョッキグラスが、粉々に吹き飛んだのだ。若者は蛙のつぶれたような声を出し、震えながら銃弾の飛んできた先を恐る恐る見た。

 ジャニを担いでいない方の手にピストルを構えて、パウロが若者を凝視していた。長い前髪に隠れた双眸が、危険な光を放っている。


「彼女の前でそういうふざけたことをぬかしてみろ。次狙うのはてめぇの頭だ」

「はっ、はひぃぃ!」


 すくみ上っている若者に背を向け、すやすや眠るジャニを担ぎながら、パウロは食堂を出ていった。どこか頼りない優男だと思っていたパウロの豹変ぶりに、若い男たちは度肝を抜いている。


「あ、あいつ、あんなにおっかねぇ奴だったんだな……」

「もう、あいつらに逆らうの、やめようぜ」


 結果オーライではあるかと考えながら、ロンはため息を禁じえなかった。


(あぁ、これから先が思いやられる……)






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