迫りくる破滅 2


 最初にその力に気づいたのは、“翼獅子号”に乗っている時だった。


 ジャニはそれまで右目を封印していた眼帯を外し、その大きな青い両目をきらめかせて、翼獅子号から見える大海原を飽きもせず眺めていた。

 彼女の人間離れした目の良さは健在だったので、船員たちも、暇があれば見張り台

に登って海を眺める彼女を咎めることはなかった。


 ある日のことだった。いつも通り見張り台からどこまでも続く水平線を眺めていたジャニは、ふと違和感を覚えて右目をこすった。

 視界に突然、金色の靄のようなものがかかったのだ。しかも、その靄はなぜか右目だけにしか見えていない様子だった。右目を瞑るとその靄は消え、左目を瞑ると靄は視界いっぱいに広がる。しばらくその不可思議な状況に首を捻っていたジャニだったが、あることに気付いて文字通り目を見張った。


 金色の靄が、やがて一か所に集まって、人の形を象り始めたのだ。その人物を認識して、ジャニは小さくつぶやく。


「ロバート……?」


 それは、今回体調不良を訴えて船旅に参加することができなかったはずの、翼獅子号の仲間だった。前歯が抜けているのがトレードマークで、酒を飲むことが滅法めっぽう好きな男だった。その彼が、金色に輝く粒子の塊となって、船の甲板の上からこちらに手を振っている。なぜか、とても安らかな表情で。

 他の船員たちは、金色に輝くロバートには全く気付いていないようだった。忙しそうに木材を運んで歩く船大工のメイソンが、避ける様子もなくロバートに突っ込んでいくと、金色の粒子は風になびくようにしてふわりと消えた。

 今見たものが幻だったのか判断できないまま、ジャニは誰にも見たことを話せないでいた。


 しかし、バルトリア島に戻った翼獅子号にもたらされたのは、ロバートの訃報であった。突如容態が急変し、大量の血を吐いて彼は亡くなったということだった。

 そして、彼が死んだ日は、ジャニが船の上で金色に光る彼を見かけたのと同じ日だった。


(あれは……死んだロバートの霊だったっていうこと?)


 ジャニは愕然とした。あれは幻ではなかったのだ。


 それから、ジャニは再び右目を眼帯で封印した。ロバートを自分だけ見たという事実、そして彼が死んでしまうことを避けられなかった罪悪感のようなものが、ジャニを苦しめた。


 そしてそれ以降も、同じような現象が何回か起こった。それはいつも、右目から見える世界の中で、金色の粒子が否応なく突き付けてきた。ジャニと親しくしていたものの死を。それが見えてしまうタイミングも、場所も、ジャニには選択の余地がなかった。それがどうして見えてしまうのかも、ジャニにはわからなかった。


 セイレーンのもとから返ってきた彼女の右目は、望まない力を備えていたのだ。それが、セイレーンの力によるものなのか、もとからジャニの右目がそのような力を持っていたのかもわかるすべはない。


 金色の粒子が見えた後、ジャニの右目はいつも熱を帯びたように痛みを伴った。だが、今回のように夢を見た後でこうして痛むのは初めてのことだ。


(今の夢は、ただの夢じゃないのかも)


 夢の中で対峙した狼の金色の瞳を思い出し、ジャニは背中をはい上る嫌な予感に少し身震いした。気分を切り替えようと、大きく深呼吸する。

 ジャニは鏡の前に置いてあった黒革の眼帯を手に取り、いまだじんじんと痛む右目に重ねた。きつく頭の後ろで眼帯の紐をしばり、腰まであるつややかな黒髪も、高い位置でぎゅっと束ねる。


「さぁ! 早く訓練場に行かなきゃ。みんなが待ってる」


 鏡の中の自分にそう声をかけ、ジャニは手早く着替えて自室を出た。

 ジャニが住んでいるのは、酒屋の裏にある集合住宅だった。ほどほどの広さがある中庭を囲んで、ジャニの部屋と同じ造りの部屋がずらりと並んでいる、木造の古めかしい建物だ。そこには翼獅子号の仲間や、船乗り、酒場で働く女中などのあらゆる人々が住んでいる。


 部屋を出て中庭に出ると、吹き抜けとなっている庭に降り注ぐ陽光が、強く照り付けた。もう日がだいぶ高く昇っている。悪夢のせいで寝坊したことに気付いたジャニは、少し足早に中庭を横切ろうとした。


「お、やっと起きたか」


 のんびりとした口調で声をかけられ、ジャニはそちらに目を向けた。

 ひょろりと背の高い若者がこちらに歩いてくる。亜麻色のふわふわとした髪を揺らして、両手をズボンのポケットに突っ込み、けだるそうに歩いている彼の顔には、目の下から鼻の上にかけて、横真一文字に大きな傷跡があった。


「おはよう、パウロ。ごめん、寝坊しちゃった」


 ジャニは頭を掻きながら若者に詫びた。

 パウロは軽く肩をすくめて見せ、「早くいくぞ~」と言いながらジャニに背を向けて出口に向かう。その背中に、ジャニは不思議そうに声をかけた。


「あれ、ここに用があって来たんじゃないの?」

「だから、お前がなかなか来ないから見に来たんだって」

「え、わざわざ迎えに来てくれたの?」


 驚いてそう聞くジャニに、パウロは照れ臭いのを押し隠すように顔をしかめて見せた。


「毎日訓練に一番乗りするお前が、こんなに遅れるなんて、なんかあったかと思うじゃねぇか。この辺の居住区も、一気に人が増えて、治安がいいとは言い切れないんだからな。心配するのは当たり前だろ」

「そっか、ありがとう、兄貴!」


 満面の笑みを見せるジャニを少しまぶしそうに横目で見て、パウロは足早に歩き出した。その後ろを歩きながら、ジャニは弾んだ声を投げかける。


「でも、手合わせで手加減なんかしないからね!」

「望むところだ」


 二人が笑いあいながら建物を出た時だった。


「あら、パウロ! こんなところに来るなんて珍しいじゃない」


 ふいにかけられた黄色い声に、パウロは訝し気に振り返り、ジャニはうんざりとため息をついた。振り返らなくてもそれが誰だかわかった。同じ住居に住んでいるナタリーだ。


「私に会いに来てくれたのかしら?」


 ゆっくりと振り返ると、案の定、ナタリーが上目遣いでパウロを見上げ、急接近していた。胸の大きくあいたドレスを着ているので、その角度で近づけば彼女の豊満な胸の谷間がパウロから見えるだろう。

 パウロはちらりとナタリーの胸元に目をやり、慌てて視線をそらしながら答えた。


「いや、ジャニがなかなか来ないから様子を見に……」

「なぁんだ、子守ね。ほんと、クック船長達から面倒な子の世話を押し付けられちゃって、パウロも大変ね」


 嫌味たっぷりにそう言って、ナタリーは剣呑な視線をジャニに向けた。ジャニも無言で睨み返す。


 彼女は、ジーナの居酒屋で働く女中で、ジャニとパウロよりいくつか年上の女性だった。どうやらパウロのことを好いているらしく、いつも彼の横にいるジャニをあからさまに毛嫌いしている。同じ建物に住んでいるということもあって、時々嫌がらせも受けるので、ジャニのほうも彼女を好きになれずにいた。女中仲間と中庭で談笑しているとき、近くをジャニが通ると、ナタリーは仲間たちに何事か囁いてそろって含み笑いをするのだ。

 苛立つこともあるけれど、ジャニはあえて彼女たちを無視し続けた。

 しかし、どうやら彼女のそういう態度もナタリーの神経を逆なでしているらしい。

 パウロはにらみ合っているナタリーとジャニを交互に見やり、困ったような顔をした。


「ジャニはもう十八歳、子供じゃないんだ。子守なんて言うなよ。それに、仲間内では兄貴分が弟分の世話を焼くのは当たり前のことさ」


 パウロの言葉に、ナタリーの口角が意地悪く吊り上がる。


「ふぅん、“弟分”ね。まぁ確かに、女らしさのかけらもないものねぇ」


 ナタリーの目が、ジャニの全身を呆れたように眺めまわす。男物のシャツとズボンをまとうジャニの体は、凹凸の希薄なスレンダーボディ。化粧っ気のない顔に、顔の半分をも隠すような黒い眼帯。居酒屋や娼館の立ち並ぶこの島で、胸元が強調される色とりどりのドレスをまとっている女たちからしたら、ジャニはよほど特異な格好をしているのだろう。

 しかも、他に類を見ない史上初の女海賊だ。銃や剣を振り回す彼女は、島の女たちから異端とみなされていた。


(もう、そういう視線にも慣れたけど)


 自分を珍獣のように遠巻きに眺める女たちに、ジャニはうんざりしていた。そして同時に、彼女たちを馬鹿にもしていた。みんな、そろいもそろって群れを作り、男たちに色目を使って、自分たちを幸せにしてくれる男を捕まえることしか考えていないのだ。


(あんたたちなんて、海に出たらたった一日でももたないでしょうね)


 そう思うことで、いつも溜飲を下げていたのだが、今日は夢見も悪く機嫌が悪かった。だから、思わず言葉が口をついて出てしまった。


「“女らしさ”って何? 胸の谷間見せびらかして、派手なドレス着て男に色目使うこと? だとしたら、そんなものいらないよ」

「な、なによ」


 虚を突かれたような顔をするナタリーに、ジャニは冷たい視線を向けた。


「二人でおしゃべりしたいならどうぞ、ご勝手に。パウロの言う通り、私はもう子供じゃない。一人で大丈夫だから。じゃ、ごゆっくり」


 そう突き放すように言い置き、遠ざかっていくジャニの背中を眺めながら、パウロは深いため息をついた。






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