迫りくる破滅 1


『ジャニ……ジャニ……』


 どこからか、自分の名を呼ぶ声がする。それは懐かしく、そしてまた同時に体の奥底から恐怖を呼び覚ます声だった。あれは、“彼女”の声だ。


 黒と青がない混ぜになった闇の中から、紺碧こんぺきの鱗に覆われた腕が伸びてきた。青白いその腕の、鋭く伸びた爪先が、指と指の間の水掻きのような薄い膜が、克明に見える。

 手は避ける隙も与えず、ジャニの右目に襲いかかった。長く鋭利な爪が眼球を包み込み、えぐり取る。その痛みにのけぞり、ジャニは絶叫をあげた。


 闇の中で、“彼女”は高らかに笑っていた。


(どうして! これは、ずっと昔に起きたことのはず)


 混濁こんだくする意識の中で、ジャニは無惨に穴の空いた右目を両手で必死に隠していた。


(私が右目を彼女に奪われたのは、生まれる前のこと。それに彼女は、呪いを解かれて消えてしまったはず……!)


 そう、それはもう、八年も前の話。生まれた時からセイレーンの呪いによって右目を奪われていたジャニは、その呪いを解くため、旅に出た。そして長い旅路の末、ジャニはこの腕の主、セイレーンと戦い、彼女の呪いを解くことで戦いに勝利した。呪いの大元が消え去ったことにより、ジャニの右目の呪いも解け、彼女は元通り自分の右目を取り返したはず、だったのだが。


(そうか、これはきっと夢だ)


 そう自分にいい聞かせながら、なぜか鮮烈に感じる右目の痛みに、ジャニは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。実際に目玉を抉り取られたらこんな程度の痛みでは済まないだろうが、右目が猛烈に、熱い。燃えているようだ。


『ジャニ……ジャニ……』


 声は変わらず、彼女を呼び続ける。そして目の前のもやが一気に晴れたかと思うと、ジャニはいつの間にか、バルトリア島の丘の上にいた。


 彼女の現在の住処で、身を置いている“翼獅子号”の海賊団の拠点。丘の上からは、彼らの住居や、帆船が止まっている港が見える。ここはジャニのお気に入りの場所だった。毎日夕暮れどきに、ここから眺める島の景色が好きだった。


 しかし、その中に一つだけ、異質なものが混じっていた。目の前、丘の一番高いところに、灰色の毛並みを波打たせた一匹の狼が佇んでいたのだ。


 巨大な狼だった。すっくと立つその高さは、ジャニの胸あたりまである。豊かな灰色の毛の中で、こめかみのあたりから両側に二筋、白い毛が混じっている。目は深い金色で、満月の月の光を思い起こさせた。その目には、どこか深い哀愁が漂っていた。


(どうして、こんなところに狼が……)


 この島にいるはずのない生き物との遭遇に、ジャニは身をこわばらせた。


 突然、狼が身悶えして苦しみ始めた。そしてその痛みに突き動かされるように、脱兎の如く駆け出してジャニに襲いかかってきた。ジャニは咄嗟に腰の短剣を抜いて切り付けようとするが、まるで水の中で動いているように動きは緩慢なものになった。


(間に合わない!)


 狼の牙が、勢いよくジャニの腕に突き立った。悲鳴をあげるジャニの腕から、鮮血が滴り落ちる。腕を振り払って狼の牙を逃れようとするが、狼の巨大なあぎとは揺るぎもしない。


 狼が再び、身を震わせて苦しみ出した。ジャニは狼に目を向けて、訝しげに眉を寄せた。狼の目の周りから、まるで割れた卵の殻のような亀裂が、金色に輝きながら狼の顔を覆い始めたのだ。その光の中から、何か触手のようなものが伸びてくる。


 一瞬、狼の顎の力が弱まった。その隙に、ジャニは短剣を狼の口の中に突っ込んでその牙から辛くも逃れた。恐ろしい声で吠えている狼に背を向けて、必死で走る。しかしやはり、足は鉛を含んだように遅々としか動かない。


 背中に迫り来る何かの気配を察知して素早く振り返ったジャニは、ハッと息を飲んだ。今や狼の顔面を覆っている金色の光。その中から伸びた金色の触手が、信じられない速さで襲いかかって来る。


 触手の切っ先がまるで鋭利な刃物のようにギラリと光ったかと思うと、それは迷うことなくジャニの胸を突き刺した。


(あぁ……!)


 鈍い痛みが胸に走り、ジャニの意識は遠のいていく。柔らかい、微睡まどろみの中へと。

 その中で、あの声が再びジャニに囁くのだった。


『ジャニ……ジャニ……お願い、早くここへ来て……!』




 自分の絶叫に意識を呼び覚まされ、ジャニは震えながら目を覚ました。


 視界には、自分の寝床から見える木目の天井が広がっている。が、その体は寝床を離れ、床に転がっていた。落ちた際に背中を打ちつけたのだろうか、鈍い痛みが残っているが、まだ生々しく残っている夢の残影を振り切れず、ジャニは恐々と自分の胸を触ってみた。傷はない。


(それはそうだ、ただの夢だもの)


 ため息をついて、ゆっくり起き上がる。伸びをして上半身をほぐしたら背中の痛みはすぐにひいたが、右目の痛みはなかなか消えなかった。


 自室の壁にかけられた鏡に歩み寄り、ジャニは自分を見つめる。


 髪の長い、細身の少女がこちらを見返している。齢は十八くらいか。強張った表情で、深い青の両目でこちらを睨んでいる。

 右目の下瞼を引っ張って鏡を覗き込み、眼球に異常がないのを確認すると、ジャニは苛立たしげにため息をついた。


(いまだに、この右目のことで悩んでいるなんて)


 セイレーンの呪いを解いて右目を取り戻してからも、ジャニはこの右目に悩まされつづけてきた。


 悩みというのは、その見た目ではない。“見えるもの”のことだった。





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