嗤う神に 悲しき剣を
茅野 明空(かやの めあ)
嗤う神
男に帰る場所などなかった。
ただひたすら、目の前の切り立った崖のような石段を惨めに這い上っていく。
そこは、海の中に突如突き立った槍のような、奇怪な形をした孤島だった。島全体が無機質な漆黒の岩石で構成されている。
まるで天に向かって伸びるようなその孤島の石段を、男は目を血走らせて登っていく。
天は男を拒絶するかのように、叩きつけるような雨を降らせていた。空は緑がかった灰色の曇天で、どこか遠くで雷鳴が轟いている。
「なぜ……」
男の口からは、時折独り言のような、誰かに問いかけているかのようなつぶやきが漏れる。
「なぜ……見殺しになさった」
男の爪のはがれた指が、黒い艶のある石段を強くつかむ。
「なぜ、彼らは死ななければならなかった」
孤島を渦巻く波は高く荒く、男のいる場所まで容赦なく波飛沫をあげる。全身濡れそぼり、足元をすくわれても、男は何段か石段を転げ落ちた後、血だらけになりながらも再び登り始めるのだった。
男にはもう何も残されていなかった。この、胸の内に巣食うどす黒い感情以外は。
「存在をお示しください。どうか、啓示を……憎き奴らに贖罪を……!」
男のやつれた頰に流れるのは、雨か、涙か。
「ここであなたがジャーマに葬られたなど、戯言だ! 私は信じない! あなたは必ずお姿を見せてくださる!」
男の手が、とうとう石段の果てを掴んだ。
そこは、自然が作り出した祭壇だった。歪な円形をなした祭壇の中央に、男の膝丈ほどの石碑があり、見事な刀身の剣が突き刺さっていた。
「あれが、“ジャーマの聖剣”……」
男はしばし放心したようにその剣を見つめていたが、はっと我に帰ると、すがり付くようにその剣の柄を握り、必死で剣を石碑から引き抜こうとし始めた。
剣はしっかりと固定されているのか、なかなか外れる様子はない。男の屈強な腕には血管が浮き上がり、口からは苦悶の声が漏れる。雨で手が滑り、後ろに勢いよく転がっても、男は剣を引き抜くことを諦めはしなかった。
男は気づかなかった。不意に暗雲がどす黒く垂れ込め、遠かった雷鳴が急激に近づいてきたことに。
とうとう、男は頭に巻いていたターバンを解いて手に巻き付け、刀身をつかみ始めた。布ごしとはいえ、力を入れるほど食い込んでくる刀身に、男の口から絶叫が上がる。手に巻き付けた布はすぐに血に染まり、白銀に輝く刀身につぅと男の血が伝い落ちていった。
絶叫と共に、男は不気味に黒く渦巻く空に向かって言葉を投げた。
「主よ、どうか……私に力を‼︎」
男が渾身の力を込めて剣を引いた、その時だった。
天地が裂けるような轟音と共に、辺りが真っ白に包まれ、男は石碑から抜けた剣と共に勢いよく後ろに倒れ込んでいた。何が起きたかわからず、あまりの恐怖に
そして、男は見た。
海から
その存在を、何と表現すれば良いのだろうか。
白鳥のような純白の翼が、幾重にも背中から生え、対照的に漆黒の体は、何処か甲殻類を彷彿とさせる。人間のように二本の腕が肩と思われる場所から伸びているが、その体は、何本もの金色の鎖でがんじがらめにされていた。
伝説の生き物である竜を思わせる長いツノを
人間のものと似た形をした目は、それぞれ違う方向を絶え間なく見回していたが、やがて、一点に集中した。
恐怖に戦慄している男を、いくつもの金色の瞳がじっと見下ろしている。
【チカラ・ガ・欲シイか】
未だ轟いている雷鳴に負けぬ音量で、地の底から響くような声がした。発音は不明瞭だが、男が理解できる言葉だった。
男の目が爛々と輝いた。震える両手を、神々しさと禍々しさのない混ぜとなった存在に差し向ける。
「アラム……貴方なのですか⁉︎ 主よ、私にその御姿を見せてくださったのですね⁉︎」
幾つもの目玉が並ぶ頭の下部で、綺麗な弧を描いて口だと思われる部分が開いた。白く輝く牙が幾重にも並ぶその口を見て、男の背筋が粟立つ。
神も、笑うのだ。
【オマエ・に・チカラ・を・ヤロウ】
弦が切れるような甲高い音がして、巨大な姿を拘束していた金色の鎖が一本、弾け飛んだ。そこから、漆黒の甲羅に覆われた腕が伸ばされる。指のようなものが真っすぐに、座り込む男に向けられた。
【赤き月ガ・満ちルとき・我ハ解放さレル・其レ迄・チカラの一部・ヲ・オマエに・託ソウ】
再び、白い牙が笑みの形に浮かび上がる。
【ダガ・耐えラレ・ズ・死ぬコトもアル・どう・スル?】
男の両手は震えていたが、その血走った目に、迷いはなかった。
「死など恐れません。むしろ、私が恐れているのは、今のこの世界が是とされることなのです」
男の脳裏に、十字架の影がちらついた。木でできたそれらには、
「どうか奴らに……我らと等しい破滅を‼︎」
恐ろしい哄笑が、海面を大きく波立たせたかと思うと、のばされた指から眩い金色の光が放たれ、男を直撃した。
男の絶叫が、長く孤島に響き渡る。
切れた雲間から覗く三日月が、まるで男を嘲笑うかのように、
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