二人静

henopon

白い狐と青い春

 南に面した三階建の鉄筋コンクリートの校舎は、窓の外に耐震のために強引に筋交いを入れられていた。ちょうど筋交いの影にあたるところに同級生の二宮はいた。他には誰もいない廊下で、今さら何か思い出したなどわざとらしい演技をして引き返せるわけもない。気まずいまま伏せ目がちに後ろを通ろうとして「高浜君」と声をかけられた。白い頬を包むような首までの髪がかすかに動いて振り向いた。いつもきちんとしているはずなのに、彼女のブレザーの下のネクタイはほどかれていた。

「なぜこそこそする」

「してない」

「由緒ある二宮家のわたしを待たせたのを気にしてるのか」

「してない。今日は付き合わん。塾のテストあるんで。二回目だ」

「おまえは修行するんだ。塾と人の世の安定のどちらが重い」

「今んところ塾だ。小テストとはいえ親の視線が重苦しい」

 もしこのまま人の世の安定とやらが守られるならば、社会に出て食わなければならない。卒業しても自分が守ったおかげで人の世は守られているなど誰にも言えないから。

「見て」

 高浜は二宮の指を見た。手入れはされているが美しいだけのしなやかな指ではなく、道場で居合をしている強さも備えていた。

「指の向こう」

「ネイルしてるんですか。校則違反ですよ」

「爪の向こう」

「ガラスが汚れてますね」

「ガラスの向こにカラスがバタバタと飛んできている」

「見えないな」

「黒い鳥が見えないのか」

「黒い鳥は見えるけど、バタバタというのがどこにあるのか」

 高浜はガツンと頬に拳を食らわされた。要するに見たくない。

「よお」と窓越しに翼を持った肘くらいの背丈ほどのカラスが筋交いに止まった。「幻妖の者が現れた」

「権兵衛、あんたもだ」

「俺は良い幻妖だぞ。おまえたち二人を守るように言われた。だからおまえたちは常世から密かに来る幻妖の者から守られているんだぞ。世の安寧を守ることができるのは俺が後ろであれやこれやと云々…八百万の神の間を行き来して……」

 僕は手で制した。これ以上騒がれると他に迷惑だ。他人には烏に襲われているように見えるはずだ。


 あれは高校受験の冬だ。

「僕は巻き込まれたんだ。倒れた白い犬を抱き上げただけなのに。

「白狐だ」

「あのときはひどくやられて、わざわざこの俺が天地風の力を補充せねば小娘は死ぬところだった」

「補充するにしても、もっと隠れてしてくれという話だよ」

 ボロボロの姿をしていたから、今から思えば幻妖獣とやらと死闘を繰り広げた後で隠れることなどする暇も力も失せていたに違いない。

「だからおまえたちはニコイチになったんだ。ややこしい。今ではおまえがいなければ、彼女は幻妖獣を封じ込めることはできないし、自由に白狐になることもできない。敵を倒すための武器も使えないんだ」

 塾から帰るとき、いつもの道ではなくて公園を抜けようとしたところが間違いだった。犬がブランコのところで伏していたので、何となく大丈夫かと話しかけたときだ。息も絶え絶えで、せめて抱き締めてあたためてやろうとした。気がつくとはえていた尾と頭に耳が飛び出した耳が消えていた。慌てて裸の彼女をコートをかけて、どうしていいものかとうろたえていると殴られた。


「あのときおまえにわたしの力が流れた。白狐としての力もおまえに奪われたままだ」

「人の姿になろうとしていたところに悪い印象しかしない。早く狐に戻してあげてください」

「そもそもわたしは人だ。これまで二宮の女は白狐の魂を継いできた」

 五穀豊穣の稲荷に使える彼女は人の世に迷い込んでくる、幻妖なる者を退治しているらしいのだが。

「おまえがもっと力を操れなければわたしは強くなれん。だからおまえは修行させる。どこぞの誰かの出した問題を紙の上で解いて喜んでいる暇はないんだ」

「成績一番で喜んでいたくせに」

「まあそれはそれだ。二宮のこともあるからな。簡単な試験くらい人としての振る舞いも学ばんと」

 二宮は私立小学校から大学まで保証されていたところ、わざわざ高浜が入学した公立高校に転校してきた。入試のときに廊下で見たときは驚いた。他の生徒も美しさに驚いていたが、動揺した高浜は合格発表の日までコタツで死んでいた。

 合格発表が行われ、晴れて高校に入学できたときのうれしさと二宮に見つけられたときの悲しさは今でも忘れない。せっかく華やかな高校生活を夢見ていたのに、こんなわけのわからないことに巻き込まれたくはないので必死で逃れようとした。

 あれはGW前の合宿で起きた。

 小学時代からの友人の定本が二宮に惚れた。バスケ部で一年で地区強化選手に選ばれ、しかも学力は優秀で容姿もいい。高浜は引き立て役にすらならない。そんな定本がばすけの大会に来てくれと二宮を誘おうと思うんだけどと話してきた。実際誘ったようだが、興味がないと断られたということだ。夏休みも花火大会も誘ったが断られたようだ。ただおそらく今でも惚れている。何でもできる奴は少々では折れない。学年二番に甘んじたとき、二宮に勉強のことで話しかけていたが流された。


「幻妖はどこに?」

「上」カラスの権兵衛が筋交い越しに屋上を見上げた。「他にもいるからな。ややこしい話のようだ」

「ややこしいのか」高浜は鞄を背負いなおした。「そろそろ塾へ」

「あのな。おまえがいなければわたしは戦えん。ちゃんと支援しろ」

 リュックを掴まれた。

「二人が組んでから半年、まだ心許ない。もう子狐ではないが」

「絶対イヤだからな」

 力任せに連れていく二宮がリップの唇を寄せてきた。

「逃げたら八つ裂きだ」

「できるもんならやれ。俺がいなきゃ術も使えんくせに」

 二宮は恨めしそうに高浜をギロッと見ると、腹立たし紛れに突き放した。しかし着いてこいという後ろ姿は変わらないし、また着いてくるだろうという気持ちもわかる。わずかに肩越しに見てきた顔は着いてきてくれるだろうなと聞いていた。

「すぐ卑怯な顔するよな」

 無意識にあんな表情するから異性だけでなくて同性までも引き寄せるんだぞ。今度言ってやる。

 女狐が。


 すでに二階から三階へ上がる踊り場が重い空気に満たされていた。三階から屋上へ繋がる階段には採光窓から光が差し込んでいて、高浜には黒い炭粒まで浮かんているように見えた。二宮のスカートの裾が激しく揺れて、膝の上が覗きかけた。

「今の見えた?」

「いや」高浜はうつむいた。「見えかけたけど」

「は?刺みたいなものよ」

「見えた。ここに当たったもん」

「ちゃんとよけてよ。何かあればどうするの」

「あんな速いのよけられるか」

 二人は屋上の扉の前に来た。灰色のペンキが剥がれ、また上に塗ってあるものだから表面がいびつになっているところに南京錠までかけられていておどろおどろしい。かつては屋上でも部活動をしていたようだが、いつしかできなくなった。

「痛っ」指で殴られた。「急に何するんだよ」

「さっき下着見ようとしたわね」

「見ようとしてない。下にいたら見えそうになったから慌てて」

「慌てて?」

「本能が」

 頬をつままれた。これが本当の狐につままれるということだ。

「開いてる」

「どうぞ」

 高浜が言うと、二宮が恐る恐るノブに手をかけた。半回転ほど回したか回さないかというとき、高浜は二宮に蹴飛ばされるように屋上へと転げた。何かすると思っていたが盾にするとは卑怯すぎないか。

「パンツ、見えるぞ」

「いるのか」

 這い上がると、

「何かいる」

 と高浜は見渡した。

 青い空から雨が落ちてきた。

 錆びた金網に錆びたハンガーが風にコトコトと揺れていた。

「いるのか。わたしには見えないんだからな。おまえしかいない」

「ここからは冗談なし」

 高浜は中腰のままリュックを降ろした。はるか遠くから権兵衛の羽音が聞こえるが、どういうわけか部活の声も聞こえる。

「部活してるのか」

「屋上は使われてないはずだ」

「消えた」

 高浜は出入口から離れて金網と貯水タンクとの間を探るように歩いた。裏に「影」が見えた。人がいるようだ。寒気がしたが、後ろに二宮の気配を信じつつ追いかけることにしたとき、金網ごと屋上から突き落とされた。落ちる。中庭の生徒たちが見え、高浜の体は足を支点に校舎の縁で弧を描いた。暴風で吹き飛ばされて貯水槽に激突した。カマイタチが空を裂いて、影が消えた。

「ジン、大丈夫か」

「痛いわっ」

 高浜は膝をついた二宮の背後にいくつかの影を見た。振り向きざまに二宮は爪を立てた。

「手応えは?」

「ある」

「三匹いた」

「二匹は別のところにいた。おまえの後ろに。でも消えた」

 高浜は頭を押さえながら雨のやんだ空を見上げた。二宮の腕に抱かれて見下した気配が見えるし、嘲る笑いが聞こえてくる。

「消えたみたいだ」

「うん」

 二宮は急に立ち上がると、冷たい目で見下ろした。下に落ち、一階から数人の教師が屋上へ来た。

「誰かいるのか」

 数人の教師が来て、国語科の中年の中ノ瀬が来た。必死で駆け上がってきたようだが追い越されたらしく肩で荒い息をしていた。続いて学校中の野次馬が押し寄せてきた。

「おまえたち二人」中ノ瀬がベストの下で息を整えた。「こんなところで何をしている。どうやってここに入ったんだ。いや。いったん職員室へ行こうか。話は後だ」

 高浜は言葉を聞きながら野次馬たちを見ていた。一人の生徒が背を向けるのを見逃さなかった。


 生徒指導室で高浜は体育科の宮本を前に話を聞かれた。

「どうやって屋上に入ったんだ」

「鍵が壊れてました」

「おまえは鍵が壊れていたら人の家にも入るのか」

「え……」

「おまえは屋上で二宮と二人で何をしていた。何をしていて金網にもたれたんだ。言えないのか」

「いや……」

「もし下に人がいたらどうなったか考えたか」

「すみません」

 権兵衛が何とか人のいないところへ運ぼうとして失敗したのは見ている。突風に見えたかもしれないが権兵衛が掴み損ねていたのだ。

 テヘペロだ。

「このことは親御さんにも話さんといかんからな。学校としても責任というものがある」

「センセ、そんななの気にしなくてもいいかと」

「あ?」

「い、いいえ」

「ここだけの話だ」指で呼ばれて相手が突き出してきた。「交際しているのか」

「幸いにもお付き合いなんてしてませんよ。頼まれてもイヤです。あんなの性格ブスですよ。いつも澄ましてるのは話すとボロが出るからです」

「おい」

「すぐ暴力ですからね。男女平等くらい学べ。だいたい人を慈しむという気持ちすら持ち合わせてるかどうか怪しい。どれほど二宮家が金持ちどうっ……」

 振り向いたとたん、ビンタが飛んできた。目から火花が出た。首がもげるかと思った。冷たい二宮が煌めく瞳で見つめたいた。

「二宮の方は済んだのか」

 宮本が話しかけた。

「はい。近いうちに親を呼んで今日のことを話すとのことです。ちなみにわたしはコイツと付き合うほどバカではありません」

「なぜ上に?」

「一緒に塾へ行こうとしていたら屋上に人影が見えたんです」

「あ、そうか。同じ塾か」

「はい」

「こんなにも差がつくんだな」

 やかましいわっ。

 痛い。


 夕暮れの中、校舎のあちらこちらから人の視線が見えた。二宮は気にしてないように歩いたが、高浜は刺されている気持ちがした。

「美人は美人、金持ちは金持ち、成績は成績で妬まれる。わたしはすべて持っている」

「自分で言うな。俺は巻き添えで妬まれたくないね。成績悪くてもからかわれる。貧乏でも笑われる。下手くそでも文句言われる」

「何をしても人は何かしら探してくるもんだ。ちなみに付き合うならアンバランスがいい。美人にも弱点があるとなれば、人と安心する」

「腹立つな。付き合わないし」

「同意見だ」

 グラウンドを抜けるとき、体育館から数人の男子生徒が見ていた。同級生も上級生も敵にしている。

「昔だ。まだ屋上が閉鎖される前のことらしい。いつも吹奏楽部か空手部が練習していたんだそうだ」

 正門を出て歩道を歩いた。

「吹奏楽の人が転落した。トランペットを練習するのに貯水槽の陰でいたんだそうだ。女の子だと」

 二宮は卒アルから転写された女の子の写るスマホを見せてきた。集合写真の中、まるでいたかのように加工されていた子は童顔だ。

「2000年だった」

「平成だ。自殺?事故?」

 高浜が前を行く二宮の背に尋ねながら横断歩道を渡ろうとしたときのことだ。トラックが急ブレーキをかけて、後ろに引き倒された。

「赤だぞ」と怒鳴られた。

「何してるの」と二宮が睨んだ。

「え?」

 高浜は横断歩道の向こうに二宮に似た影を見つけて追いかけようとしたが、今度はラリアットで止められた。見えてないのかと叫ぶと見えていると冷静に返された。確かに彼女の視線は影を追いかけていた。

「あれは何?」

「俺には見えるだけだし、聞こえるだけだから何だかわからない」

「狩るのはわたしだ」

 道の向こうの影に矢をつがえる仕草をしたが、何も起きない。

 高浜がぼぉっとしていた。

「何してる」と二宮。

「へ?」

「わたしの力はおまえが源だ。おまえも同じように思わないと矢を射ることなどできない」

「あ……」

「まあいい。やたら走られるくらいなら突っ立ってるくらいがいい。おまえが追いついたところでどうにもできないんだから」

「すみませんね」

 拗ねたように答えると、

「死なれては困るんだよ」

 と諭すように言われた。


 塾でも二人の話題が出た。他の学校の生徒が休憩中に映像を止めて話してきた。高浜は付き合っていないと答えた。廊下の自販機で水を買っていると、付き合っているのかと尋ねられ、遅れてきた定本も恨めしそうに聞いてきた。

「マジなんだな?」

「マジだよ。たまたま塾へ行こうとしてたとき一緒になったんだ。そしたら上に何か見えたから行ってみたら鍵が壊れてた」

「で、何かしてないよな」

「するかよ。だいたい俺は好きでもないし、あっちも同じだ」

「でもよ、クリスマス前くらいの受験の前に塾に来ただろう。おまえを追いかけて来たんじゃないか」

「塾にいたのは知らない。何せ俺は個別で鍛えられてたからな」高浜は呆れ気味に「バスケ部で秀才のおまえだぞ。俺なんかと比べるなよ」

「だよな。帰宅部でギリギリ入れたおまえと比べるのもな」

「腹立つな」

 高校受験のときからの付き合いのセンセが歩いてきた。高浜を鍛え上げたセンセだ。いつの間にか鍛え上げられていた。高浜には恩師だ。

「デートの邪魔でもしたか」

「高浜が美人と」定本が高浜を指差して「噂になってるんですよ」

「みんなそんな二宮が好きか」

 定本が自習室の方へと歩いていく姿を見ながら、

「奴、ロリコンじゃね?たぶん二宮を狙ってるんだ。盗撮とかしてるんじゃねえのか。気持ち悪い」

「おまえの方が気持ち悪いわ」


 二宮は自習室にいた。白髪が混じっていても気にしない、メガネの下で眠そうな目の講師が来た。いつもは中学生や小学生を相手にしているが、たまに自習室で待機させられているのだが、彼が現れると一気に静けさに包まれて雑談なども聞こえてこなくなる。幻妖の類だ。

「センセ」と二宮。

「カタカタで呼んだな」

「いつもです」近づいてくるのを待った。「高浜は憑かれてますか」

「白狐にか」

「わたしは二宮以外に憑きません」

「殺せばいいのに。二宮も彼から放たれた力を掴めるかもしれん」

「……」

「殺せんか。冬だな。自分を救ってくれたしな。冗談だよ」

「殺さないでください」

「今のが君の気持ちだ。もともと僕はただの石ころだ。いつしか誰かが手を合わせてくれて、祠を立ててくれて、いつしか忘れ去られた。人を殺す力も守る力もないんだ」

「忘れ去られたのに、まだこの世にいるのはなぜですか」

「不思議だねえ。まだどこかで誰かが覚えていてくれるんだろうね」

「ところで今わたしは誰と話していますか。センセ?神様?」

「僕の場合、二宮と同じで一心同体だね。彼も僕もない。たまに石ころに憑かれたと嘆いてるくらい」

「センセが憑いたんでは?」

「石ころは迷惑してるかな」

 センセの話に二宮は唇に指をつけて小さく笑うと、聞いてもらえますかと頼んだ。


 センセは聞いた後、

「人を寄せるんなら悪意があるのかもしれないし、訴えたいことがあるのか、ただ遊んてほしいのか」

「遊んでほしい。センセ、自殺したのは高校二年生の子ですよ」

「子どもでないと言いたいのか。ちなみにセンセも遊んでほしいぞ」

「センセが遊ぶと相手の気が狂いますよ。では自殺した人が」

「どうかな。決めつけたくない気もする。他にも見えたんだろう?」

「高浜が見ました。でもわたしにはだいたいの気くらいしか」

「ニコイチは不便だね。どうにかならないのか。力も彼がいないと使えないんだろう。生きてる奴のことほ調べたのか。自殺に多かれ少なかれ関わった人か物だね」

 二宮は考え込んだ。

 ふと廊下から、

「ヘルプお願いします」

「へるぷ、あいにーど……♪」

 センセは姿を消していた。


 この塾に来たときの驚きは忘れはしない。センセの二宮を見ているようで見ていない、もっと深くを見ている瞳だった。何の変哲もない人に見えたが、意識しているとすぐに二宮の身がバレた。

「うどん好き?」

「え?」

「きつねうどん」

「好きでも嫌いでもないです」

「高浜くんを追いかけているみたいだね。高浜くんはついこの前に何かに憑かれてる。匂いがする。二宮さんと同じ匂い。たぶん狐だ」

 二宮は意識が遠のくようにセンセを睨み据えていた。

「誰だ」

「怖い顔しないの。僕はしがない石ころだよ。路傍の石だ」

「わたしには彼が必要だ」

「吉野か信太か」


 そろそろ帰ろうとしている頃、自習室に定本が来た。彼も帰ろうとしているところだった。

「今日は災難だったみたいだね」

「そうでもないわよ」

「高浜は疲れたと話してたぞ」

「生徒指導でいろいろ言われたからじゃない?わたしは何も」

「駅まで帰らないか」

「逆じゃない」

 塾の玄関に出た。

「暗いからさ。学校で変なこと起きたみたいだし」

「それなら高浜くんを送ってあげなさい。どうせ補習してる」

「特訓だ。塾の前にテス弁しようとしてたみたいなんだよ。あんなテストくらい隙間時間にできるのに」

「友だちなのにずいぶんなこと言うじゃない」

 センセが現れて、

「二人ともどうした。雨か」

「高浜のこと。帰宅部なのに小テストくらい一発で合格しろと」

「今日は合格してたぞ」

「え?」と二宮。「センセ……」

 小さく頷いた。

 二宮は鞄をセンセに放ると、

「預かっていてください」

「二宮さん」と定本。


 二宮は学校の塀を野生の獣のように乗り越えた。夜の校舎は静かだが、職員室には光が見えた。誰かいるのだろうが、一気に廊下を駆け抜けて階段を駆け上がる。屋上に近づくにつれて、闇が見えてきた。妙にケタケタと笑う声、捻じるように体を歪ませて喜ぶ姿が見える。

「あのバカが」

 扉を開けた瞬間、三つの影が飛び込んできた。二宮は跳ねるように避けると、片膝をついたまま高浜のいるところを探した。生ぬるい風が吹き込んできて埃を飛ばした。

「見えた」

 貯水槽の反対に自殺した女の子の姿が見えた。高浜が落ちる彼女を抱き締めようとした。また一緒に落ちる気か。二宮が一緒に抱き締めて屋上へ戻した。貯水槽の下へマウスピースが転げ落ちた。抱き締めたとき落ちる姿が見えた。高浜は必死で貯水槽の下へ腕を伸ばして劣化したマウスピースを掴んだ。

「これだ」

「バカか」二宮は高浜の胸ぐらを掴んだ。「おまえまで引きずられるんだぞ」

「この子の魂はずっと同じことを繰り返してるんだ。通学して授業を受けて放課後に練習してる。これに原因があるんだ。こいつがこの子から離れたがらないんだよ」

 高浜は必死で訴えた。二宮はそんな高浜の様子を見て力が抜けた。

「もういい。疲れた」

「これどうする?」

「お祓いでもすれば?」

 呆れた。

 

 冬の夜、高浜は倒れた白狐に恐る恐る近づいてきて、ミリタリーコートにくるんで抱き上げてくれた。

「死ぬかと思った」

「だが蘇生しようとしたとき、おまえの力の一部は人のガキに憑いたんだ。奴が邪魔しなければ」

 権兵衛が言うが、

「わたしは死んでた。生きてるのは奴が抱き締めてくれたからだ。奴から力が流れ込んできたんだ」

「たかが人ごときに」

「人ごときにだ」


 二宮は振り向こうとしたとき、急に高浜が抱きついてきた。無意識に二宮は投げつけた。高浜の背が裂けるのが見えた。いくつもの笑い声と影が見えたが、高浜には三人の女生徒と二人の男生徒、呆然とする国語科の中ノ瀬の姿が見えた。

「白狐、動きを止めろ」

 権兵衛が急降下して中ノ瀬の頭を鷲掴みにした。生きている。五人の生徒の影は術で制止した。

「おまえたち動くな」

 手で制しつつ、倒れた高浜の血塗れの体に寄り添うと、

「ジン、起きろ」

「死ぬばおまえに力が戻る」

「黙れ」と権兵衛に叫んだ。「さっさとおまえの宝を渡せ」

「まったく」

 くちばしからサファイアのような小粒を投げて寄越した。二宮は高浜の唇に押し込んだ。青く包まれた高浜の体はじっとしていた。

「奴らは何だ」

「俺にわかるわけないだろ」

 権兵衛は答えると、中ノ瀬は膝から崩れた。

「どういうこと」

「彼女が自殺した原因は俺にもあるんだ。五人のイジメを何とか止めようとしようとしていた。まだ俺は若かったんだ。でも五人を止めることはできなくて。怖くて」

「見殺しにした」

「俺も新任で」

 そろそろ二宮の五人を制止した腕が限界に近づいていた。

「二宮、見失うな。また五人とも暴れるぞ。奴らのあのときの負の気持ちは今でも奴らを捕らえている」

「限界だが?」

「封じ込めろ」

「ジンが倒れてるのに封じ込めることなどできない」

 影はそれぞれ檻で暴れる猛獣のように空気を震わせた。


 高浜はマウスピース越しに女の子の姿を見ていた。難しい勉強のことや上がらない成績のこと当落選にいた部活のこと、イジメられて心が折れたことがサイレント映画のように流れる。

「わたしは許さない」

「だよな」涙をこぼした。「君も聖人君子じゃないもんな」

「誰も救ってくれなかった。家族も学校の先生も。わたしも」

「わかると言えば叱られる。でも一つ言えるよ。君くらい自分を許してあげな。必死で生きたんだ」

「急に言われても」

 高浜は二宮に気づいた。このままではやられる。高浜の全身に力が流れ込んできて、二宮に注がれるように見えた瞬間、彼女を覆い尽くそうとしていた影が割れた。


 ブランコに腰を掛けた二宮は表情のない顔で話した。

「中ノ瀬から聞いた。話す気はないと突っぱねたけど、何とか」

 中ノ瀬はパソコンにイジメていた生徒の名前と住所、進学先などをメモしていたということだ。

「三人の子どもは、わたしたちと同じ学校に通ってる。二人は小学生だと話してた。いずれ通うかもしれないと。中ノ瀬は加害者の名前を見つけたんだそうだ。意識したら二十年も前のことが日に日に募る。忘れようとすれば、まるで現実のように見える。ずっと悩んでいたらしい」

「なぜ追い続けたんだ」

「贖罪だ。誰かが覚えていてやらなければと考えた。いつの間にか彼自身が幻妖獣に囚われていた」

「中ノ瀬先生は苦しみから解放されるのか」

「そんなもの本人次第だ」すっと立ち上がった。「ところで彼女のマウスピースはどうする気なんだ」

「彼女の両親に渡しても、今さら訳わかんないだろう。お祓いでもしてもらおうと思ったんだけどね」

「権兵衛が欲しいらしい」

「またこんなもの集めてどうするんだよ。二宮から渡してくれ」高浜はマウスピースを渡した。「しかしこのままニコイチじゃ大変だな」

「わたしは構わん。電池切れで倒れることはないからな。ちゃんといつでも充電しておいてくれ」

「スマホかよ」







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