あたしは魔女にはならない:3


 青磁の顔をよく見たのはいつが最後だったのか。

 陶子は自問した。それからやはり、いつものとおり、いつかの夏を回想した。そう、あれも、三年前だった。

 あの日は、大学受験を控えていた硝子がいた。陶子と硝子しょうこは二人でダイニングテーブルを囲み、アイスティーとケーキを食べながら、来年の夏の話をしていたのだった。

 そこに、青磁が大学から帰宅した。青磁はそのまま「相談がある」と陶子に持ち掛けた。口数が少なく、自己主張も薄い青磁が、そういった。陶子は呆然と青磁を見た。青磁の左手には何かのパンフレットと、ポストカードがあった。それから、陶子の隣に腰を下ろした。

 陶子の向かいにいる硝子が顔をしかめた。「ちょっと、私がいま話してるんだけど」青磁は一瞬だけ硝子のほうを見て、口を結んだ。

 けれども少し首を振ってから、「あとで父さんにも相談するんだけど」と言葉をつづけた。

「ずっと考えていたことで」

 自分のペースで話し始める青磁をよそに硝子はふい、と部屋をあとにする。陶子はこの兄と妹の断絶に身体がこわばった。扉の閉まる大きな音がして、陶子の硬直が解ける。


 けれども隣の青磁をほおっておくこともできず、まず、青磁のほうに向きなおった。横からみると、額、鼻筋、言葉を常に閉ざす薄い唇の形。けれども、少し長くわざとらしい瞬きが二回繰り返される。緊張しているときの青磁の癖だ。

「それで、青磁の話ってなに? わざわざ硝子まで追い出して。あとであの子文句言うわよ。お兄ちゃんは私の時間をいつも邪魔する!って」

 硝子の置いていったアイスティーのグラスから一筋水が滑り落ちた。

「入信したいんだ」

 青磁がそう切り出した。そして、左手にもっていたパンフレットを机に並べた。

「この家は、仏教だってきいたから。もちろん、家族全員のことじゃなくて、こっちだけ、入信する」

 したい、ではなくする、に変わった。

「入信って、いったって」

 陶子はその先の言葉が見つからなかった。

 確かに、現代社会には信教の自由なるものがあって、青磁にはその権利がある。

 けれども、まだ青磁は十九歳の、大学生なのだ。親元で暮らし、学費を出し、生活している。そういう意味では、陶子にとってはまだ保護するべき子供だ。あと数年で出ていくにしても、いまだはまだ保護する必要があった。

「別に今すぐじゃなくていいんじゃない? 最終的に選択するのは青磁だけれど、せめて二十歳を超えてからでも、遅くはないでしょう」

「……ずっと考えてた。今までもずっとそうだった。中学も高校も全部未来のための真っ当な選択をしてきた。それは母さんや父さんのおかげだよ。でも、本当に欲しかったものは手に入ってない」

 青磁は左手を開いた。その手にはなにもない。

「何も宗教家になりたいってわけじゃない。ただ、ただ……生き方を変えないと、いけない」

 息子が、得体の知れない何かになってしまった。座っているソファーの座面から重力が失われていくような感覚で、陶子は軽く腰を上げ座り直した。

「青磁の交友関係を疑ってるわけじゃないけれど……誰かになにか言われたの?」

「違う。こっちで考えたこと。……そもそも、こっちのことを好きになる人なんていないよ」

 その言葉を吐いた青磁の横顔を、陶子はもう思い出せなかった。

 思い出そうとすると、死化粧を施した青白い鼻筋しか思い出せない。眼窩がえぐれ、右足の関節がありえない方向に曲がり、首元に大きなあざがある。遺体しか思い出せない。


 あの日の週末、青磁は宣言通り入信の儀式を行い、その翌月、死んだ。一人で県外の山に登り、帰りに滑落して死んだ。青磁はひとりで向かった、らしい。遺書はいまも見つかっていない。



「わからないの。知らないのよ……なにも」

 目を瞑る。

 三年前の夏。青磁が出かけた。帰ってくるといった日付になっても帰ってこない。一睡に行ったはずと大学のサークルに問い合わせれば一緒に行っていないという。いまかいまかと電話のそばで座り込んだ。チェストにもたれかかって三度朝日を浴びた。何度も考えた。

 青磁が死んだのは私のせいなのではないか。

 被害妄想じみた妄執にとらわれる。


 __嘘をついたのはなぜ? 

 __信頼できなかったの? 

 __干渉しすぎた?

 __むしろ逆で、無関心すぎた?

 __どうして宗教なんて頼ったの?

  なぜ。どうして。私のせい? 


 青磁に尋ねれば尋ねるほど鏡に映った魔女の紫色の唇が動く。おまえのせいで青磁はしんだ! 誰も肯定せず、誰も否定できない。魔女は、陶子だ。どれほど記憶をさらっても、思い出すのは自分のことばかりだった。無力さと寒さと右手の痺れ。


「わからないの。青磁が何を考えていたのか。でも、遺書は、ないから。だから自殺じゃない。第一、こんなこと知ってもどうにもならないでしょう」

 陶子は視線を落とし、青磁の勉強机を眺めた。黒く変色したデスクマット。その下のアメリカ大陸の地図。各州の名前には蛍光ペンが引いてあった。


「せいくんが、もし、もしも自殺だったのなら、あたしの、せいかもしれないから」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る