あたしは魔女にはならない:2
陶子は唯一開く、青磁の部屋に繋がる扉を開けた。
青磁の中学の卒業アルバムは本棚の一番下の、奥に埋められていた。三年二組のページを開く。青磁のクラスだった。出席番号順に並ぶ顔写真をひとつひとつ指で押さえながら確認する。淡島、浅井、大槻、加藤、蒲原、菊池、小森、須崎、佐藤、田仲、土屋、都築、南、水野、渡……。クラス三十二名を繰り返し読み上げた。
小学校のアルバムも、高校のアルバムも見た。
一組から順にめくっていく。三組や四組、五組を見てもかわらない。春音、晶、美月、すみれ、俊彦、紫穂、波瑠佳。どれだけみても、《アイカワハルカ》なる人物はみつからない。離婚や再婚を機に名字が変わったのかもしれないが、下の名前まで偽る意図が見えない。
青磁に連絡をする同級生。
女の子。
陶子はクローゼットの枕棚に仕舞われた紫色を手に取った。折り畳み傘だった。その場で開く。紫陽花と、シロクマがプリントされたものだった。かわいらしい傘。娘の、二十歳になった硝子のものではない。陶子が使うには幼く、夫は黒い長傘を使う。青磁は薄い緑色の傘を使っていた。これは誰のものか。陶子は傘を畳み、紐を引き、捩れを直した。捻れたものを整えると、ワタリシホ、という名前が現れた。三年二組、青磁のクラスの一番後ろにいる少女の名前だった。
インターフォンがなる。陶子は「空いています」と玄関に向かって答えた。陶子にはあけることができないからだ。ゆっくりと開いた扉のさきに、女が、アイカワが立っていた。
陶子は小さく息を漏らした。彼女は、真っ黒なリクルートスーツを着ていた。左手と左手首以外にはすべて包帯がまかれている。重病者は顔の包帯をとり、会釈をした。能面のような硬く薄い質感の顔に、大きな二重の目がはまっている。プラスチックのような皮膚だった。
「アイカワハルカです、すみません。つい最近事故に遭って、こんな状態ですみません」
やはりここは普通ではないのだ。
「いえ、こちらこそそんなタイミングでごめんなさい。こちらも謝らなくちゃいけないことがあるの。青磁にお線香をあげたい、っていってくれたけれど、できないかもしれないわ。青磁は仏教徒じゃないの」
「……クリスチャンって、ことですか?」
陶子は首を振り、一番近い扉を開いた。
学習机、シングルベット、遺影、本棚、カブトムシの標本、アメリカの地図、古い車の模型、アウトドア用の重たいリュックサック。
フレームの中では幼さを残した青磁が笑っている。顔をくしゃくしゃにして、笑っている。青磁の視線はちょうどカメラから外れていた。それでも顔全体を使って笑っている青磁の顔はとても生き生きとしていた。
陶子ははじめ大学の入学式でとった写真を使うつもりだった。笑っているとも、困っているともどちらともつかない表情でカメラをみる青磁の写真だった。それは、あの子がよくする顔だった。
けれども、あの写真には文字通り破顔する、朗々と笑う青磁がいた。いきている顔だった。高校時代の青磁が所属していた山岳部伝手に硝子が焼き増ししてもらった写真だった。
アイカワはただ茫然と写真を見ていた。三秒。「あはは!」左手で口元を覆った。それからすこしうつむき、何度も何度も瞬きを繰り返した。陶子はただアイカワの横顔をみていた。睫毛の根元が震えたのも、小さく鼻をすする音も、すべて見えた。
「ほんとうに、死んじゃったんですね! そっかあ、そっか。そうなんだ。ああ、ごめんなさい笑ったりして」
いいえ、と陶子は首を振る。アイカワは破顔する青磁を見つめた。遠い日を写真に重ねるような目つきだった。「すきだったんです」うわごとのようにアイカワは吐き出した。
「このまえ、友達から淡島青磁くんがなくなったって聞いて。今更だとは思ったんですが、どうしても」
語尾が消え、アイカワは口元の微笑みを、穏やかなまなざしをどうにか取り繕うように目頭を押さえた。飾り気のない人差し指と爪が生々しい。
これが詐欺だとして。陶子は想定を重ねる。演技だとすると、それはそれは作りこまれたイミテーションだった。逆に、事実だとするなら、この子は一体誰なのだろう。陶子はアイカワを見ていた。
「青磁の、どこが好きだったの?」
「やさしいところ」
アイカワは微笑んだ。
「すこし不思議なひとで、あたしからは、なにか、なにかきれいに見えたんです。透き通っているというか、所作のひとつひとつがすきでした。人とすれ違うときとか、すごくいっぱい肩を引いてて」
アイカワは陶子に向けて左肩だけを引いた。引いた肩はほとんど一直線になっていた。
「学校でメダカを飼ってたことがあったんです。そのとき、生き物係の子が結構忘れっぽくて。餌やりとかわすれちゃうんです。彼はさらっとフォローしてて。それでもまあ、ほとんどメダカは死んじゃって、最後は、生き物係の子が引き取るって主張したんだけど、彼が、飼い殺すよりメダカの群れに返してあげたほうがいいっていって水路に放流したんです。
彼はちゃんとどこにメダカがいるかとか調べていっていました。冷静に考えると飼育放棄なんですけど。でも、なんだか、忘れられなかったんです。無責任だけど、やさしかったと思います」
「そのメダカのことは覚えてるわ」
「ご存知だったんですか?」
「知っている、というか、そうね。多分、そのメダカの話だと思う、かな。小学生のころ、泣きそうな顔で瀕死のメダカを連れて帰ってきたことがあってね。どこから拾ってきたとかいっても答えないんだけれど、そう、放流した子だったの」
「そのあとどうされたんですか?」
「そのメダカを、標本にしたの。私はお墓でもつくるのかと思ったんだけどね。あの人……夫が青磁に提案して、一カ月くらいかけて標本にしたわ」
陶子は棚に並んだ中からてのひらに収まるくらいの瓶を手に取った。透明標本と呼ばれるものだった。透明な液体の中で、赤紫色に着色された脊椎が見えた。脊椎から広がる骨の一つ、尾鰭と胸鰭はほんのりと青く染まり、頭や瞳は青紫色になっていた。
アイカワの横顔の輪郭はまったく青磁とは異なっていた。当たり前だったのに。なぜかそれが重なるものであってほしいと思っていた。
陶子は青磁の中学の卒業アルバムを開いた。
「今の話をきいて知りたくなったわ……この中であなたはどれなの? 小学校のアルバムがふさわしければ持ってくるけれど」
アイカワは自分の左手首を握った。陶子はアイカワに向き直り、紫色の折りたたみ傘を並べた。
「これ、あなたの?」
唇が震えている。ワタリシホ。サインペンで書かれたカタカナ五文字をアイカワの人差し指がなぞる。それはひっかけだった。でも、無縁だとも思えなかった。「どうしても知りたいことがあったんです」少女は無理やり口角をあげて笑顔を作っていた。
彼女は紫色の唇をしていて、顔色が悪かった。
「……せいくんは自殺だったんですか?」
せいくん。幼い呼び名だった。ああ、そうだ、小学生のころ、青磁は『せいくん』だった。
アイカワは笑っていた。泣いた後を隠すために。
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