僕らは魔法をつかえない。
入相アンジュ
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あたしは魔女にはならない:1
南向きの明るいリビングにつながる扉を開けた。
けれども、西日が
陶子は「青磁」と背中に呼び掛けた。彼は振り返る。真っ白な顔だった。顔に陰影はなく、隠しきれない眼窩の欠損や、めくれ上がった右唇と剥き出しの歯列が目立つ。死人の顔。陶子は叫ばない。泣かない。もう慣れてしまったから。ただ、不快だと眉だけ歪めた。化粧の匂いがしたから。あの日、霊室で嗅いだ死化粧の、臭い。亡霊だ。
一人で県外の山を登った帰りに滑落事故に遭った。即死だった。遺体はひどい状態だった。享年は十九歳。あと一か月と少しで二十歳になるはずだった。
陶子は廊下を歩く。見た目よりもずっと長く感じる。内装も、外装も、たしかにここは、見慣れた陶子の自宅のはずだったのに、歩いてもあるいてもたどり着かない。鏡が右にも左にもずっとならんでいる。玄関扉まで直線を作っている。陶子の位置にかかわらず、どこの鏡にも判を押したようにそっくりな陶子の横顔が映った。鏡というよりは家電量販店にならぶ液晶テレビのようだった。陶子の歩く歩幅が乱れる。大きすぎたり、小さすぎたりを繰り返す。
陶子はもう慣れてしまった。三年間、青磁の葬儀の翌日から何度も陶子はこの細長い箱で遭難している。
自宅によく似た箱だった。歩き続けるか、青磁の死体を目撃するか。その二択だった。陶子は、自宅の玄関で、夫や娘が扉を開けるのを待つ。陶子には扉を開けられない。電話もどこにもつながらない。外開きの玄関が開くとああ今日もやっとおわったのだと安堵するのだ。それでも、翌日、何かのドアノブを引いた拍子にここに閉じ込められる。
青磁の部屋の外から見える庭の翌檜はうつくしい円錐形。車の脇に植えた低木は紫陽花で、青がきれいだった。足首より下に刈り揃えられた庭がひろがっている。でも、それだけ。青磁の死体と遭遇するだけの箱。陶子は縋るように玄関の扉に視線を向けた。
歩いた。廊下をただ、滾々と。鏡に映るのは陶子の横顔。唇の色は紫で、目の下には青黒い隈が張り付いている。肌は濁っている。足を止める。鏡に魔女の胸像が現れる。陶子は鏡に右手を重ねた。魔女は泣いていた。
「青磁が死んだのは私のせいなの?」
紫の唇は乾燥し、縦皴が刻まれている。
「青磁は、私を恨んでいるの?」
魔女は陶子だった。
魔女の指が鏡を超えて陶子の鼻先に伸びる。
その瞬間、電話が鳴った。足元が歪む。瞬きをすると、目の前に白い固定電話があった。この密室で電話がなるのは初めてだった。「はい。淡島です」陶子は答えた。
「淡島青磁さんと中学の同級生だったアイカワハルカといいます。あの、青磁くんが亡くなったと伺いまして……本日お時間が合えば、お線香をあげに伺ってもいいですか?」
女の声だった。
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