第2話 願い

めまいが取れた時、トキは自分がどうなっているのか理解出来なかった。地面が《頭の上に》見えた。どうやら自分は浮かんでいるのだと感じたが、何故浮かんでいるのか、地を行く人影が何故そんなトキを気にしないのかが判らない。

 トキは腕を動かしてみた。水を泳ぐほどでは無いが、身体を移動出来ることに気づいた。そこでトキは必死に手足を動かした。それまで頭が地面に近く、ほぼ逆立ち状態だったのが、どうにか下に足が来た。

 ふと気づくと、人影の一つがトキの真下に居た。

「見ないでよ!」

 慌ててスカートを押さえたが、人影は気にするふうも無く見上げている。それと目が合い、トキはドキリとした。

――なにこの人!あの姿はまるで……。

 トキはゆっくりと下りていく。やがて地面に足が届くと、急いでその者から離れた。

 足先から手の指先まで、何を着ているのか黒一色だ。かろうじて顔だけは黒くないが、その異形は正視に耐えない。口は耳ほどまで裂け、唇はあるかないかの薄さで、それは鮮血を啜ったように赤い。耳は上が尖っている。最も目を引くのは、その者の目だ。燃えるような眼差し――などという表現があるが、その者の眼球はまさに燃えていた。小さな青い炎が揺れ、それをトキに向けている。背後には先に矢尻を付けたような尾がうごめいている。全体を眺めてトキの頭に浮かんだのは、伝承や物語の中で神と同等かそれ以上に馴染みのある名だ。

「な……なに?アナタもしかして……」

「おまえは人間だな?おまえが俺の願いを叶えてくれるのか?」

「え」

 トキは絶句した。どう見ても悪魔にしか見えないそれは、どうやらトキに危害を加える様子は無い。だが、悪魔の願いを人間が叶えるとはどういう意味か理解出来なかった。

「この多くの中から俺を選んで現れたおまえが願いを聞いてくれるのだな?」

「ち、ちょっと待って!なんでそうなるの?普通逆でしょ?悪魔が人間の願いを聞くんじゃ無いの?契約だ――とか言って」

 トキは恐怖も一時忘れて言い返した。目の前の《それ》からは危険な害意を感じなかった。

「悪魔――とはなんだ?」

 黒ずくめの男は先にスペード様の尖りを持つ尾を振った。

「は?」

 トキは男を睨んだ。

「この格好の、どこが悪魔じゃないって言うの?」

「だからその悪魔とは何だと訊いている」

「じゃああなたは何なのよ!」

「名の事か?好きに呼べ」

 アリサは黙った。男の言う事はすべてが冗談に思えてきた。半眼で男を見据えて言った。

「なんで私の言葉がわかるわけ?」

「おまえの脳は酷く粗末なので、俺の方でおまえの脳の言葉を使っているだけだ。何せ生み出された連中は満足に進化しない。わずかに高等な物ほど互いに殺し合ったりで、こちらの思いも知らずに絶滅していく。本当に、産みの苦しみも知らないで……」

「粗末……ですってぇ!」

「それでも進化過程で俺たちの願いを聞く事の出来るものは現れると信じて待った。伝説の通りにおまえが現れたわけだ。おまえたちに与えた世界からここに来る事が出来るのは、願いを叶える力を持つ者だけだからな」

「ちょっと、アドリ!いるの?いたら出てきてよ!もうわけわかんない!」

 男は首を傾げた。

「アドリ――とはなんだ?おまえの中を覗いても意味が見えない。とにかく俺の願いを叶えてくれ。そのために俺が産んだ世界なのだからな」

《問いはなにか》

「アドリ!」

《問いは常に自分の側にあり、答えもまた》

「ヒントちょうだいってば!アドリはいっつも冷たすぎ!」

《どこであれ、わかる事の方が少ない。なにがわからないか考える力の欠如。答えは問いがなくては生まれない。他人が言う問いもその人が見いだす答えも、その者のものであって他の者の物では無い》

「今日はおしゃべりね……。わかりにくさはいつも通りだけど」

 アリサは黒い男を見た。男は怪訝な顔だ。

「何と話している?おまえの中にはおまえの言葉以外無いが、誰がいるのだ?おまえは――」

 男の相に険しい色が浮かんだ。

「本当に人間か?」

「失礼ね!さっきから黙ってればワケの分からない事言ってくれちゃって!」

《黙ってはいなかった》

「アドリもうるさい!」

 怒鳴ってはみたがアリサは知っている。問いを見つけ、その答えを見いださなくては元いた世界に戻る事は出来ないのだと。唇を噛んだ。

「で、どんな願いを聞けば良いの?言っときますけど私は神様でも何でも――え?」

 男は突然アリサの前でうずくまった。頭を抑え、苦しんでいるように見える。

「なに?どうかした?」

「や」

「や?や、なに?」

「やめろおぉ!その言葉を使うな!頭に浮かべるな!わ、割れる……俺の頭が割れる!」

 どの言葉が問題なのか、アリサにはわからない。自分の言った言葉を思い返しながら呟いてみた。

「どんな願いを……私は神様でも……なんでも……」

「ぎ……やぁぁ!ヤメロというのが……わからないか!」

「もしかして、かみ……」

 男は倒れて動かなくなった。

「やだ……死んじゃった?ねえ……」

《ここには生がない。死は生のある場所にしかいられない》

「死なないの?生はないって、じゃあこの人――この悪魔たちはどこから現れるの?悪魔にもお母さんが居るんじゃ無いの?」

《では最初の者はどの母から生まれるのか》

「卵と鶏じゃないの、それ」

《この者たちは最初から居て、最後まで居る。ヒントというならばそれだ》

「生まれないし死なない者の願い――」

《そうだ》

「人は不死とか願うわ」

《死ぬからだ》

「この人たちは死なない。だから不死に用は無い。それ以外に待望する願いって」

 アドリは黙った。アリサは倒れて動かない男を見つめた。

「私たちを作ったみたいなことを言っていたわ。それってまるで神様じゃないの?姿はどう見ても悪魔だけど、でも、神様だとしたら」

 男が一声呻いた。

「命を生み出せる者の願い――自分には生も死も無い存在……」

 ハッと顔を上げたアリサは、見えないアドリに言った。

「死がほしいの?自分の終わりがほしいという事?でも、神様ならそんなものも作れるんじゃない?自分の死とか」

《問いはそれだ》

「じゃあ答えは……この神様たちは……」

 男が目を開けるのとアリサの視界が大きく歪むのが同時だった。男はアリサに向かって必死に手を伸ばしたように見えた。気づけばアリサは祖父のロッキングチェアに腰掛け、膝に本を開いていた。朦朧とする頭に浮かぶ言葉があった。

「不死の存在の願い」

 窓から風が入る。葉擦れの中にアドリの声が聞こえた気がした。

《無いから求める》

 アリサは判った気がした。完全と呼ばれる者の不完全を。

「最後の希望に作ったのが死を定めに持つ命……なのね」

 カーテンが揺れた。

「神は、人になりたかった……」

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トキ・グリムの不思議な世界 宝力黎 @yamineko_kuro

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