トキ・グリムの不思議な世界

宝力黎

第1話 人の世界

何度経験しても慣れることが無い。朦朧とした頭と焦点の合わない目で《移動後》の世界を見回した。今まで一度として、誰かが居る前で《移動》したことはないし、誰かの居る場に《移動》したことは無い。だが油断は出来ない。今まで危険が無かったからと言って、常にそうとは限らない。同じ世界に出るのならばまだしも、一度として同じ世界だった試しも無いのだ。

「暗い……」

 外だというのは風で感じる。だが見上げても星は無い。雲があるかと言えば、判然としない。星の無い世界にだって来ないとは限らないのだ。

 トキはがっくりと項垂れた。

「やるしか無いか」

 探さねばならないのは判っている。まず《問い》だ。そしてその《答え》。それが揃わなければ、元の世界には戻れない。

「今までだって出来たんだから、今度だって――」

 見回してみた。

「まずは《問い》よね」

 辺りは暗い。暗いと言うよりも、なにも見えない。木の一本どころか、足下の地面も見えない。なにかを踏んではいても、それがなにかも判らない。

「なにも見えない世界か……」

 《問い》はいつも目の前にある――と言った人の顔を思い出した。

「目の前――なにも見えない、このどこに……」

 自分の言葉を心で反芻した。

――なにも見えない……なにも、無い……?無いってどういうこと?

 自分の手を見た。見ようとした。闇のせいで手すらも見えない。握りしめ、開いてみた。

「ある……よね?私の手」

 あるのだろうかと疑問が浮かんだ。本当にあるのだろうか?右手で左手に触れてみた。

 右手は左手を感じた。触られた左手も触る右手を感じる。トキは両手のひらで顔を覆った。

「ある」

 当たり前――が通らない世界は今までに何度も訪れた。触れられるからと言って本当にあるかは疑わしい。一筋縄でいかない世界を、トキはこれまで数々見てきた。

「でも、なにも見えない世界は初めて」

 その《見えない》ということにヒントがあるような気がした。様々な世界はあったが、そのどれ一つを取っても《無駄に用意されたもの》はなかった。

「見えないと、あるかどうか判らない」

 トキは滑らせるように足を前に出した。なににもぶつからない。逆の足で同じことをし、それを繰り返してみた。それでも顔の前にぶつかる《なにか》が無いとも限らない。手で顔を保護し、前に進んだ。

「あるかどうか判らなくても、無いと決めつけられない」

 その逆もあるはずと考えたとき、声が聞こえた。

《したことの無い怪我の痛みを人は知らない》

 聞きなじみのある声だ。

「アドリね?」

 トキが不思議な世界で知り合った唯一の存在だ。いつも現れるわけでは無いが、度々トキの前に姿を見せる奇妙な存在が闇にいた。どの世界にもその世界の誰かは居たが、名も知らず情もわかなかった。そもそもある世界で出会った者とは二度と他の世界では会わない上、一度訪れた世界へ二度行くことは無かったのだから。そんな中、アドリだけが奇妙な世界を行き来するトキの《親しい》存在だとトキ自身は思っている。

《何もない世界に、知っているものは無い》

「知っているものが無ければ問いは何よ!」

《問いがそもそも何かを考えねばならない》

「だからその問いって――」

《何が問いかでは無く、問いとは何なのか》

 アドリが無駄な話をしたことは無かった。この言葉には一体何が隠れているのか、トキは考えた。

「問いとは――」

《問いとは》

「言葉……」

《言葉とは》

「あらわす方法?」

《なんのためにだ》

「それはだって、誰かに伝えたり……」

《何故伝える》

 トキは黙って考えた。

――伝えることで人の世界は豊かになるわ……。弱い小鳥だって敵が来たぞって仲間に教えるだろうし。

《何故教える》

「心が見えるんだっけ?ちょっと失礼だわ。そもそもアナタって男?声はどちらとも……」

 憎まれ口を叩きながらも、トキはアドリの言葉を反芻した。

――何故教えるの?何故伝えるんだろう……。なぜ……。

 頭に浮かんだ言葉を呟いた。

「ためになるから?」

《ためとはなにか》

「ためは……利益?」

 アドリは答えない。声がしなければ居るのかどうかも判らない。

「利益のために伝え合う……。言葉はそのために生まれて、世界の様子に当てはめられて……」

 闇を見つめた。この闇の意味は何か。

「言い表せない世界。当てはめるものの無い世界。誰も居ず、伝える必要も無い世界の意味……」

《濁った水が一滴落ちる》

「それは広がり、広がればその濁りが真実になる」

《問いがわかったか》

 トキは頷いた。

「嘘の言葉が闇の中で人の頼りになり、それを伝え合って世界が出来ていく」

《それはなあに》

「それは、人の――」

 激しいめまいだ。元の世界に戻る時に経験する上下左右もわからなくなる感覚だ。

 気づいた時、トキは祖父の書斎の窓辺にいた。死んで十年も経つが、トキの願いで祖父が使っていた頃そのままに保存された部屋だ。

「還ってきた……」

 窓からは庭で囀る小鳥の声が入り込む。カーテンはそよ風に揺れる。トキにとって嘘のない世界がそこにある。トキは傍に置いていたスマホを手に取った。呼べば様々な情報が手に入る。だが奇妙なほど諍いが多い。人が争う時、その人それぞれが依って立つ正しさがある。それを信じるから相手のそれを信じない。自分の信を疑うことを恐れるのは、優劣を意識するせいだろうとトキは思った。

「濁った水が落ちて……」

 信じたい人の間に伝播し、いつかそれが本当のこととされる。

「恐ろしい……」

《そう、人の世界は恐ろしい》

 そよ風にアドリの声が聞こえた気がして、トキはスマホを置いた。

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