第2話

 翌日の朝、俺が登校すると、珍しく高橋はまだ来ていなかった。いつもなら一番に登校して、机で本を読んでいる筈だ。なぜなら高橋の席、窓際後方には群れる奴らが密集していて、自分の机を奪われる危険があるからだ。

 クラスから見ても高橋がいないことは珍しいことらしく、いつもより彼女へのひそひそ声が俺に届いていた。

 その声にむずむずした俺は、隣のクラスの木戸を一目確認しに行くかと席を立った。あからさまだと彼女に悪いから、トイレに行くついでにするか。まだチャイムが鳴るまで時間があるからな。

 一晩練った俺の作戦はこうだった。まず、高橋はなんらかの方法で恋人募集アピールをするだろう。あいつはプライドが高い。自分から告白はするまい。まぁそれで、もちろん失敗する。俺はその光景を高みの見物で眺めつつ、俺に惚れているに違いない木戸へ、紳士的にこちらから告白して俺の勝ち。へっ、楽勝にも程があるぜ。

 つまり俺は、高橋のやり口を見て笑い転げていればいいのだ。どうせ失敗する。どんな失敗をしてくれるのか見ものだ。

 そして遂に、俺は最下位争いを脱却し、一気に上位へと流れ込む。そうなったら、高橋を昼飯の輪にでも誘ってやるか。別に仲が悪くてこんなことをしている訳ではないしな。あれ、そもそもなんで、こんなことしてるんだっけ。まぁ、いいか。

 内心でにやけつつ、トイレへ向かう為、自身の机から廊下へと旅立つ。先程も言った通り、この時間に席を空けると、知らん奴に使われてることがあるから嫌なんだよなぁ。……は? 今のは?

「え?」「ちょ、あれ」「あいつ、やば」「は、何してんの?」「うわー、すげー」「やべぇ奴いるんだけど!」

 トイレついでに隣のクラスの前を通りかかって木戸の様子を確かめようと思ったが、今すれ違った少女に、俺含め周囲の生徒が目を奪われていた。こ、こいつ、何考えてんだ。

「な……」

「あら、樹山くんじゃない、おはよう」

「……はああ?」

 すれ違った相手は高橋だった。振り返るとそこには高橋がいた。

 だが、高橋は髪を染めていた。彼女の長い黒髪は明るい茶髪になっていた。まさかとは思うが、彼女は彼氏を作る為だけに、校則という名の法に触れた。こいつ、まじか。

 高橋は周りの視線を意に介さず、堂々としていた。教室に辿り着くと、皆に向かって「おはよう」と挨拶していた。皆は唖然とした表情でいて、教室は一気に静まり返っていた。

 唐突に、謎の恐怖感が俺を襲う。俺は怖くなって、トイレに駆け出した。予想を遥かに凌駕していた。

 え、何してんのあいつ? 様子を窺うだと? いや、駄目だろ! あぁ、こんなことなら、昨日やはり彼女を止めておくべきだったのだ。あいつは何も知らない。

 トイレの大きい方に鍵をかけて閉じともる。なおも思考は止まない。

 先生に怒られたら俺も道ずれじゃん! ん、あれ? 俺が心配なのは、そこなのだろうか。というか、昨日まで親しく話していた相手の変貌ぶりは、共感性羞恥のようなものに襲われるんですけど。あぁ、駄目だ。

「いや、あいつ、そんなキャラじゃないじゃん!」

 そんなに悔しかったのか? もしかして、本来はあの覚悟で臨む勝負だったってこと? 俺の勘違いなの? 駄目だ、疑問符が溢れて大変なことになってる。

 俺はぱん、と頬を叩いて、恐る恐る教室へ戻った。頼むから、教室では話しかけないでほしかった。

 当の本人は、教室の中央でキョトンとしていた。いや、中心人物って、そういうことじゃねぇよ! 思わず言ってしまいそうになったけれど、喉にストッパーがかかっているのか昼休みの時みたいな声は出ない。

「これで私は……」

 高橋が何かを呟いた気がした。が、それを聞き取る前に、彼女をいじめる谷岡が教室へ入ってきた。

 谷岡は高橋を見るなり、すぐに爆笑した。

「ぷっ、くくっ、ふっ、はっはっはっはっは! 馬鹿じゃないの!」

 それを発端にして、教室中で笑いが漏れた。それに対するリアクションも何もかも分からない不器用な高橋が見てられない。本を読んでいても、こういうことには疎いのだ。よく分かるよ。

 それよりも何よりも、それに便乗して下手な演技をする自分自身が気持ち悪かった。気持ち悪いのにも関わらず、俺は皆に合わせて笑っていた。

「……ふん」

 高橋はそれだけ言って構わず席に着いた。正確に言うならば、構わないふりをしているだけだと、俺には分かった。

 その後も生徒に笑われ先生に怒られの連続で、高橋は明らかに疲弊していた。最初から高橋には信頼を置ける友情なんてのはなく、周りも冷たかったが、この事件をきっかけに、さらに周囲と距離ができたみたいだった。そして、彼女は確かに傷ついていた。

 そして、その日の昼休み。俺は図書館に行くことができなかった。朝、皆と一緒になって笑ってしまってから、罪悪感があった。もう俺は高橋の味方ではないのではと。俺が図書館へ行くことが、居場所が図書館しかない彼女を追い詰める行為になるのではないかと恐れた結果だった。

 俺はいつも教室で一人で飯を食っている吉村の所へ椅子を持って行った。

 吉村は一瞬、変な奴に絡まれたのではと、ぎょっとして俺の顔を確認して「なんだお前かよ」と言った。こいつの考えていることは丸わかりだ。

「今日はどこにも行かないのか?」

 俺は菓子パンの袋を破りながら、「ああ」とだけ返事をした。

 吉村はチビでデブで眼鏡、ズッコケ三人組の呪いを一人で背負っているような奴だった。だから呪いを他の者に移さないように……いや、シンプルに俺と同じぼっちだった。体育のペアにはよくなるものの、ぼっちの集まりは集団にはならず、ただのぼっちの集まりでしかなかった。つまり、高橋の前では虚勢を張ったが、吉村と体育以外で話したことはあまりなかった。

 それでも、俺が椅子を吉村と向かい合うように置いて座っても、彼はそれを拒絶することはなかった。基本的にぼっちは温厚なのだ。一匹狼だ、とか調子に乗っているのは俺くらいなんだ。俺は例外だ。

 しかし、特に会話がある訳でもなかったので、俺はずっと高橋のことを考えていた。

 彼女の失敗を笑ってやるのは、俺だけの特権だった筈だ。皆はいつも、それを可愛い子ぶってるだとか、わざとだとか、下らない妄想を広げて、苛立っているだけだったじゃないか。

 いや、こんなのは、普段は周りを見下している癖に、結局は周りに合わせてしまう自分への言い訳に過ぎない。俺は最低だ。

 俺はいじめられたことがあったから、高橋の気持ちを分かる気でいた。しかし、いじめというのは被害者と、見て見ぬふりをする加害者を両方経験しないと分からないのだなと思った。

「何かあったのか?」

 吉村が親切にも訊ねてくれる。俺は相談してしまおうかとも悩んだが、まだまとまりきっていないことを話しても伝わらないだろうと憚られる。

「いや。だけど、いずれ話すかもな」

「……そうか。なら、いいけど」

 図書館へ行かないということは、必然的に、高橋と話す唯一の機会を失うということだった。たった十数分の会話がないだけで、放課後には物足りなさが残った。どうやら吉村では埋めることのできない時間らしい。

 今週は一度も高橋と話さなかった。俺は、罪悪感ばかりが募っていった。

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