不幸な人がいない村――3

 翌日、朝早く目覚めてしまったので、散歩でもしようかとドアを開けようとしたとき、


「なに、どこか行くの、あたしも連れて行きなさいよ」


 とチャーリーが声をかけてくる。

 先程までいびきをかいていたので、ついさっき起きたみたいだ。


「うーん……なんですか、ご主人様、一人でどこへ行くつもりですか……私も行きます……」


 クルシェもまぶたをこすりながら、ベッドから起き上がってくる。


「散歩に行くだけだよ、二人も行く?」


 はい、と二人とも返事をしたので、クルシェが顔を洗って、着替えるのを待ってから出発することにした。


 一階に降り、玄関へ向かうと、モップで床を掃除しているあの従業員に出くわした。コップを割ったことで落ち込んでいた女性だ。

 昨日と違って、悩み事ひとつなさそうな晴れやかな顔をしている。


「おはようございます、よく眠れましたか?」


 僕たちを見ると,彼女が話しかけてきた。


「ええ、とても寝心地の良いベッドでした」


 と答えると、彼女は掃除を中断して、


「それはよかったです」

「あなたも元気そうでよかったです。昨日は落ち込んでいた様子だったので少し心配してましたが……」

「落ち込んでいた? え、私が?」

「ええ、昨日、コップを割って怒られたと言ってたじゃないですか」

「へ……何のことですか、私、コップなんて割っていませんよ」


 あれ?


「いや、でも、昨日、確かにそう言って……」

「いえいえ、そんなはずありませんよ、だって、この村は嫌なことが起きない村ですから」


 とそれが当たり前のことであるかのように彼女は言う。

 嘘をついている感じはしない。

 クルシェやチャーリーの方を見る。

 二人も困惑している様子だ。


「ところで、どこかへ行くのですか?」


 と彼女が訊いてきた。


「ええ、散歩に行こうかと」

「散歩、いいですね、今日はいい天気ですし……2時間後には朝食の用意ができる予定ですので、それまでには戻ってきてくださいね」

「わかりました、変なことを言って申し訳ありませんでした、気にしないでくださいね」


 僕はそう言って頭を下げてから、宿を出た。

 歩きながら、チャーリーに話しかける。


「なぁ、あれ、どういうことなんだろうな?」

「どういうことって、昨日のことを忘れているとしか言いようがないじゃない」

「おかしくないか、それ」

「まぁ、でも、忘れることくらいあるんじゃないですか?」


 とクルシェが言うが、僕は納得できない。


「いや、でも、昨日のことだぞ? あんなに落ち込んでいたのに……」


 もしかして、僕が異世界に転移してきた前後のことを思い出せないのも、このことと関連してるのか?


 なんて考えながら歩いているとき、前方で昨日、喧嘩していた二人を見つけた。

 仲良さそうに肩を組んで歩いている。


「おはようございます」

「昨日の旅人か、おはよう」

「おはよう、朝早いな」

 

 僕の挨拶に、坊主頭の男、次いで、ロン毛の男が挨拶し返してくれた。


「そちらの方こそ、朝早いですね」

「これから、二人で朝飯を食いに行くところなんだ」


 と坊主頭の男が言う。


「すっかり仲直りしたんですね」

「え、仲直り?」


 とロン毛の男が目をまん丸とさせる。


「仲直りも何も、俺たちはずっと仲いいが……」


 と坊主頭の男が言う。


「あれ、でも、昨日、喧嘩していたじゃないですか、女性をめぐって」

「喧嘩? 俺たちは喧嘩なんて一度もしていないぞ、なぁ?」


 と坊主頭がロン毛の男に同意を求める。


「ああ、そもそもこの村は嫌なことが全く起きない村だからな」


 と彼は本気でそう思っていそうな顔で言う。

 クルシェとチャーリーを見る。

 二人もこれはおかしいと思っていそうな表情だ。


「悪いが、ここらへんで行かせてもらうぞ」

「これから、ご飯食べに行くから、悪いな」


 坊主頭、次いでロン毛の男がそう言って、去っていく。


 こちらの会話が聞こえない距離まで二人が離れたのを確認して、チャーリーとクルシェに言う。


「やっぱりおかしいって」

「そうね、宿屋の従業員に加えて。あの二人も……となると、さすがに異常ね」


 チャーリーがそう言うと、クルシェもこくりと頷く。

 この村がどうして不幸な人がいない村と呼ばれているか、僕は何となくわかってきた。


 それから散歩を続けること五分後、今度はあの自殺しようとしていた女性に出会った。

 昨日、自殺しようとしていたとは思えないほどニコニコとしていて、鼻歌なんて歌っている。

 まさか……と思って話しかけてみる。


「あの……」

「あ、ええと、旅人の方、でしたよね?」

「ええ、その……よかったです、元気になったようで」

「え、私はずっと元気だけど?」

「でも、昨日、彼氏と別れたとかで、すごく落ち込んでいたように思いますけど……」

「彼氏? なんのこと、そんな人いないけど……あ、もしかして、私と付き合いたいの? えー、どうしましょう、顔は……悪くないけど……きゃー!」


 なんて頬に手を当てながら、一人で騒いでいる。


「あ、ごめんなさい、そういうわけじゃないです、元気ならよかったです、それじゃ……」


 それだけ言って、そそくさとその場を去る。

 

「えー、なによそれー」


 と彼女はぷりぷりと怒っていた。

 でも、きっとこのことも、彼女はすぐに忘れるのだろう……

 


 散歩を終えて、宿屋に戻ると、あの女性の従業員から朝食の準備ができていることを伝えられた。


 チャーリーを客室に残してクルシェと二人で食堂へ行くと、昨日と同じようにシェフが食堂の端に突っ立っていた。

 ただ、昨日と違い、不安そうな表情は全くしていなくて、自信に満ち溢れた顔をしている。


 今朝のメニューは、フレンチトースト、チキンのサラダ、オムレツ、フルーツの盛り合わせだった。

 どの料理もおいしかったので、「おいしい」と僕が言うと、


「フフ、でしょう、私、料理を酷評されたことないんです」


 とシェフが腕を組みながら言った。

 僕もクルシェも、え……というリアクション。

 シェフは心の底からそう思っていそうな顔だ。

 やはり、彼は昨日のことを忘れている。

 彼だけでなく、他の村人も……。

 僕はこの時、どうしてこの村が不幸な人がいない村と呼ばれているか、その理由を確信していた。



 部屋に戻ると、早速、僕たちはこの村について話し合った。


「わかったよ、この村がどうして不幸な人がいない村と呼ばれているか……それは嫌なことをすぐに忘れるからだ、だから不幸にならない」


 僕の発言に、クルシェがうんうんと頷く。チャーリーからも特に反論はなかった。

 僕の異世界へ転移する前後の記憶がないのも、きっとこの村にいるせいだろう。


「私、この村を早く出たいです」


 とクルシェが荷物をまとめながら、言う。

 僕も同感だった。


「それにしても、どうして嫌なことを忘れてしまうのかしら?」


 とチャーリーが疑問を口にする。


「それについては、大体想像はつく……誰がこの村をそのようにしているのかも、見当はついている」

「え、誰ですか?」


 とクルシェが訊いてきた。


「それは……」


 その人物が誰かを告げると、チャーリーが「まぁ、そいつしかいないわよね」と言った。



 僕もクルシェもこの村を早く出たいということで意見が一致したので、すぐに出発することにした。

 宿を出て、村の入り口まで行くと、村長が慌てた様子でこちらに来た。


「もう、この村から去るんですか?」

「ええ、僕たちは旅人ですから」

「どうして……この村にいれば不幸にはならないのに……」

「でも、嫌な記憶を忘れてしまうんですよね?」


 そう言うと、村長は目を見開いた後、苦笑した。


「気づかれましたか」

「ええ……おそらく、あなたがそうしているんですよね、魔法か何かで……」

「どうして、そう思われるんですか?」

「あなたしか考えられないからですよ、僕たちがこの村に来た時、村長さんは言ったじゃないですか、『この村にさえいれば、どんなに嫌なことがあっても、不幸にはならない』って。

 他の村人たちは嫌なことが起きないと言っていて、記憶を忘れていくことに無自覚だった。あなただけが事情を知っていそうなことを言っていた」

「なるほど……ええ、その通りですよ、私が魔法で、この村にいる人から嫌な記憶を取り除いているんです」


 この村全域に作用する魔法を使っているということは、この村長は相当な使い手だな。


「何か問題がありますか? 嫌なことを忘れられるならそのほうがいいじゃないですか! 思い出せませんが、私には過去に嫌なことがたくさんあったんです、忘れたくて忘れたくて仕方がなかった、だから魔法で嫌なことを忘れさせた……私はこの村の人たちにも幸せになってほしくて、村全体にその魔法を使っています、それのなにが悪いんですか! あなただって、嫌なことなんて忘れたほうがいいでしょう!」


 顔を赤くしてそう捲し立てる村長。

 僕はそんな彼に対して、きっぱりと告げる。


「いいえ、よくないです」

「は?」


 何言ってんだこいつ、というような顔の村長。

 僕は村の入り口から外に出る。

 その瞬間、忘れていた過去のことを急速に思い出していく。

 どれもこれも嫌な記憶だ、でも……


「たしかに、人生、楽しいことばかりじゃない、嫌なことも多い、でも、嫌なこともあったから、今の僕がいるんですよ。嫌なことを忘れてしまったら、それは今の自分じゃなくなると思うんです」


 僕がそう言うと、クルシェも村の出入り口から外に出て、村長の方を力強い目で見た。


「私も、ご主人様と同じ意見です、私も今までにたくさん嫌なことがありました、でも、そうした嫌なことがあったからこそ、今の私がいるし、こうして、ご主人様とも出会えて、一緒に旅ができて、今、幸せだって思えることができているんです」


 そう、今までに起きた嫌な出来事、それが存在していたことすらも否定してしまったら、それはその過程を経て形成された今の自分をも否定することになる。


 中学生の時に失恋したこと、いじめをうけたこと、親友と喧嘩別れしたこと、バイト先で恥ずかしい失敗をしたこと……他にも嫌なことが今までにたくさん起きた。

 時にはそれらの記憶を忘れたいと思うこともある。でも、その記憶があるからこそ、今の僕がいるし、今となってはどれも大切な思い出なんだ。


「理解できませんね……全く……お二人の考えが……」


 村長が苛立たし気に僕たちを睨みながら言う。

 そんな彼に、問いかける。


「村長は、今、幸せですか?」

「ええ、幸せですよ、嫌なことを忘れられて……あなた方はかわいそうですね、嫌なことが忘れられなくて!」


 ぺっと地面につばを吐きかける村長。


「早くどこか行ってください、そして、二度とこの村に来ないでください!」

「言われずとも、もう来るつもりはありませんよ……ああ、でも、この村に来たということは忘れるつもりはありません、一生ね……」


 最後にそれだけ言って、村長に背中を向けた。

 クルシェと一緒に自転車に乗る。

 僕はペダルを踏んで、前へと進みだした。

 後ろは振り返らない。

 きっと、これからも楽しいこともあれば嫌なこともたくさんあるだろう。

 それでも僕たちは旅を続けていく。大切な思い出を増やしながら。

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