不幸な人がいない村――2
それから五分ぐらい歩いて、宿に着いた。
受付で宿屋の主人に部屋が空いているか聞くと、二人用の部屋と一人用の部屋がそれぞれ一つ空いていると返答が来た。
「どうしようか、やっぱり、クルシェさんとは別々の部屋の方がいいよな……」
金銭的なことを考えると同じ部屋にしておきたいんだけど……。
「え、同じでいいですよ、お金、もったいないじゃないですか」
「そう? クルシェさんがいいならそうするけど……」
「なに、同じ部屋だとあんた、なんかするの?」
とチャーリーが訝しんだ声を発する。
「いやいや、まさか……」
と顔の前で手を左右にぶんぶんと振る。
「追加料金を払えば、夕食と朝食をつけられますが、どうしますか?」
と主人がニコニコとした顔で言う。
「じゃあ、つけてもらおうかな」
「了解いたしました、では。こちらにサインを」
書類に名前を書き終えると、主人がカウンターから出て、こちらに来た。
「それでは、お部屋までご案内しますね」
と二階の部屋まで連れて行ってくれた。
「こちらのお部屋になります」
主人がある部屋の前で立ち止まり、ドアを開ける。
広くはないが、二人用としては十分な部屋だった。
中央にテーブル1つと椅子が二つ。大きなベッドが部屋の端に二つ並んでいる。
最低限の家具しかないが、きれいに掃除されているし、うん、悪くない部屋だ。
チャーリーもクルシェも特に不満はなさそうな顔をしている。
「湯浴みをしたい場合は一階の方に浴室があるので、そこで……小さいですけど」
主人がそう言うと、クルシェの顔が明るくなる。
うん、やっぱり女性は入りたいよね、お風呂。
「それでは、お食事ができたら、お呼びしますね」
と主人が去っていく。
僕が椅子の一つに腰かけると、クルシェがこちらに来た。
「あの、ご主人様、湯浴み、してきてもいいですか」
「ああ、いいよ、たぶん食事までまだ時間があるだろうし、ていうか、別に僕の許可を取らなくてもいいよ」
「ありがとうございます、では、行ってきます」
と部屋を出ていくクルシェの後ろ姿を見ていると、ふとチャーリーの視線を感じたのでそちらの方を見る。
「覗いたらだめよ?」
「覗かないよ!」
まったく、このママチャリ、僕のことを変態だと思っていないか?
クルシェが帰ってきたのはそれから、二、三十分後だった。
「ただいま戻りました」
ドアが開いた音がして、現れた彼女がそう言ったことで、椅子の上で眠りそうになっていた頭が覚醒する。
目をこすりながらクルシェの方を見ると、彼女は髪を下ろしていた。
お風呂上がりのその姿を、なんだかついまじまじと見てしまう。
洗髪剤のいい香りが、彼女の方から漂ってくる……。
「いやらしい」
とチャーリーの責めるような声が聞こえてきた。
「どうかしましたか?」
とクルシェはきょとんとした顔。
「いや、なんでもないよ、なんでも」
とごまかしていたとき、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
と僕が言うと、ガチャッとドアが開かれ、従業員と思われる女性が現れた。
「お食事の準備ができましたので、お呼びいたしました」
ちょうどいいタイミングで来てくれた。
「私、お腹ペコペコです、今日はたくさん食べられそうです」
クルシェがお腹をなでさすりながら言う。
「あはは、じゃあ、早速、食堂へ行こうか、あ、でも――」
その前に……気になることが一つ。
「あの、なにか暗い顔をしていますけど、なにかあったんですか?」
とその従業員の顔を見て、僕は言う。
「え、私、そんな顔していました?」
「ええ」
「そうでしたか、実はですね、先ほど、食事の準備をしているときに、コップを割ってしまいまいして、店主やシェフに怒られてしまって……」
「そうだったんですか……それくらいのミスは誰だってしますよ」
「ありがとうございます、そう言っていただけると、少し気が楽になります」
僕の励ましに、従業員の女性はそう言うものの、あまり顔は明るくなっていない。
まだ引きずっていそうだ。
僕たちはチャーリーを部屋において、その従業員についていき、一階の食堂へ向かう。
そこへ着くと、シェフと思われる男性が食堂の端に佇んでいた。
従業員の女性は用意していた席に僕たちを座らせると、自身はシェフの隣に並んだ。
テーブルには、何かの肉を揚げたもの、生ハムがふんだんに乗ったサラダ、パエリアっぽい料理、白身魚のカルパッチョ、コンソメスープ、が並んである。
「どうぞ、お召し上がりください」
とシェフが言ったのとほとんど同時に食べ始める。
料理は素朴な味だったけど、どれもおいしかった。
値段を考えると、十分すぎるクオリティだ。
ただ……気になることが一つだけある。
料理自体とは関係ないのだが、食べている間、シェフがこちらの方をちらちらと見てきて、なんだか落ち着かないのだ。
「あの、どうかしましたか?」
耐えられなくなった僕は、シェフに訊いた。
「あ、も、申し訳ありません、実は先ほど、別のお客様から料理を酷評されてしまいまして、それでおいしいか不安で……」
「おいしいですよ」
「はい、すっごくおいしいです」
ぼくが賞賛したあと、クルシェも同意する。
クルシェは料理をパクパクと次から次へと食べながら言っているので、本心からの言葉だろう。
いや、彼女はそもそも嘘をつけないんだったな。
シェフはほっと胸を撫で下ろしたが、それでもまだ表情は硬かった。
「いえ、でも、一人の客がおいしくなかったと言ったのは事実なので、もっと料理の腕を磨かないと」
とシェフが険しい顔つきになり、奥の調理場へと引っ込んでいった。
真面目な人だなぁ。
数十分後、料理を食べ終えた僕とクルシェは部屋に戻った。
お留守番をしていたチャーリーが声をかけてくる。
「おかえり、どう、おいしかった?」
「ああ、うまかったぞ」
「大変美味でした、ママにも食べてほしかったです」
「そうねぇ、二人が食べたものを食べられないのは辛いわね……この体になって、便利なこともあれば不便なこともあるけど、不便なことの一つが食事ね……」
とチャーリーがはぁっと小さく嘆息する。
「あ、そんなことよりもさ、テルとクルシェちゃんに訊きたいことがあったのよね」
「訊きたいこと? なんだ」
僕はそう言いながら椅子に腰かけた。クルシェもベッドの端にぼすんっと音を立て座る。
「二人はさ、この村、どう思う?」
「どう思うって、まぁ、普通の村だな」
「私も同じ感想です」
「うん、あたしも同意見だわ、いいことも起きれば嫌なことも起きて、幸せな人もいれば不幸な人もいる、ごくごく普通の村。でも、この村って、不幸な人がいない村と呼ばれてるでしょ、あれはなんでなんでしょうね?」
「まぁ幸せそうな人が多いようには見えるし、実態より誇張されてるってだけじゃないか?」
「そうかもしれないけど、そうじゃない気がするのよね」
と僕の見解に、今一納得してない様子のチャーリー。
「嫌なことが起きないっていうのは結局、嘘だったということでいいのでしょうか?」
とクルシェが指を顎に添えながら、思案顔で言う。
「少なくとも、あのガタイのいい男の言っていたことは嘘ね」
「でも、私、あの人が嘘をついていたようには思えないんです」
とチャーリーの言うことに少し不満そうなクルシェ。
「僕もたしかにあの村人が嘘をついているようなたいどにはみえなかった……心の底からそう思って言っているように見えた」
「なにそれ、ていうことは、嫌なことが起きているのに、彼はそれに気づいていなかったってわけ?」
ありえない、と言いたげなチャーリー。
「そうかもしれない、いや、他の人にとっては嫌なことが起きているけど、あのガタイのいい村人にとっては嫌なことが起きた、と思えるようなことは起きていなかった、ということかもしれない……もしかすると、村長のあの、『嫌なことが起きても、不幸にはならない』って発言もここらへんに関係があるのかもしれないな……」
「なんだか、頭がこんがらがってきました」
と頭を抱えるクルシェに思わず苦笑する。
「じゃあ、この話は今日はここまでにしておこうか、別の話題にしよう」
「あ、じゃあ、私、ご主人様にずっと訊きたいことがあったんですけど、いいですか?」
「なんだい?」
「その、ご主人様の過去のことが、知りたいです!」
「過去のことか、僕の過去なんてそんな面白くないと思うけど……」
「それでも知りたいんです、ご主人様のことをもっと!」
「わかったわかった、話すよ……でも、どこから話そう……何から何まで話す時間はないし、とりあえず、この世界に来る直前と直後くらいを話そうかな……」
そのとき、おかしなことに気づいた。
「あれ?」
「どうかしましたか?」
とクルシェが心配そうな顔をする。
「いや、おかしいんだ、この世界に来る前後らへんのことが思い出せないんだ」
「なにそれ、あんた、その若さでぼけたの?」
とチャーリーがバカにしたかんじで言ってくる。
「ええ、そんな、まさか……」
しかし、思い出せないのは事実だった。
「大丈夫ですか?」
と本気で僕の身を案じてくれていそうなクルシェ。
「うーん、ごめん、とりあえず、一旦お風呂入ってきてもいいかな……話はその後で」
「いいですよ、ご主人様のお好きなようにしてください」
しかし、風呂に入った後も思い出せず、結局、その日はクルシェに過去のことを何も話さずに眠りについた。
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