三章

第20話

 水面を跳ねる白いボートが徐々に速度を落として港に着く。

 猪碌館へはそこから更に歩いて10分ほど。丘の上にある赤い屋根の大きな洋館。

 ボートを降りた九朗は早速タバコに火を付ける。


 快晴に立ち上がる煙を島の奥へと流れる風が連れ去る。

 背を押されるように九朗は一歩、一歩と足を運ぶ。視線は右へ左へ、何かないかとせわしなく探し回る。


 林の中央を緩やかに登る一直線の砂利道。

 人の気配は無く、木々のざわめきだけが耳をかすめる。決して心地の良いものではない。大口を開いた蛇が待ち構えているような異様な圧力。


 直感が後ずさる。しかしすぐそこには好奇心を惹きつけて止まない特上の謎。

 選ぶまでもなく、九朗は歩を進める。

 記者としての性ではない。それは彼が元来抱く悪癖の一つ。



 ◇◇◇



 コンビニ弁当の鮭を箸で崩しながら、月刊ムーンの新米記者・鵜森うもり瑠々子るるこはため息を漏らす。オフィス街の小洒落た広場。時刻は13時26分。休憩は残り34分。買って温めたは良いものの、今の瑠々子にはまるで食欲が無い。


「どうしたんだいルルちゃん、そんなおセンチになっちゃって」

「あっ、編集長」


 瑠々子が座るベンチの隣へ、無精ひげを生やした体格の良い中年男が缶コーヒー片手に腰を下ろす。

 古谷ふるや独尊どくそん。瑠々子の上司にして月刊ムーンの編集長。


「なーに、九朗チャンに会えないのがそんなに悲しいの?」

「いえ、そういう訳では……」

「俺ァ悲しいけどなぁ。九朗チャン、仕事早いからいっぱい楽させてくれるし」


 ムスッと横目でにらむ瑠々子。独尊は誤魔化すようにコーヒーを一口だけすする。


「冗談はさておき九朗チャンは君に心配されるようなタマじゃないよ」

「それはそうなんですが……」


 口ごもる瑠々子。同じ職場で働いている以上、九朗についてはよく知っている。ゆえに納得がいかない。なぜ九朗が自分以外の者を連れて猪碌館へ向かったのか。なぜ自分が選ばれなかったのか。


「編集長は会ったんですよね、先輩と一緒に取材に行った人と! どんな人でしたか? 歳は? 見た目は? 性格は?」


 詰め寄る瑠々子を独尊は「まあまあ」と制しながらポリポリと頭をかく。


「とても清楚な女の子だったな。たしか名無しの迷宮破り……とか九朗チャンが言ってたね」

「えっ……?」


 瑠々子の手から箸がこぼれ落ちる。

 無理もない。しれっと出てきた名前が界隈の有名人なのだから動揺するのも当然。

 加えてその正体が「清楚な女の子」という情報のおまけ付き。


 逆に疑問が湧く。なぜ独尊が名無しの迷宮破りに関心がないのか。

 彼女の存在は間違いなく大スクープ。

 九朗が言うのだから何かしらの確証もあるはず。


 にも関わらず月刊ムーンの、それも編集長ともあろう者がなぜ記事にしようとしないのか。

 なにか巨大な権力に情報を規制されているのでは、と瑠々子は勘ぐる。


「へっ、編集長! 我々はそういうのには屈してはいけないのではないでしょうか!?」

「なにやらすごく話が飛躍しているようだけど、別に何かに屈してはいないよ」


 独尊の言葉に瑠々子はホッと肩を撫でおろす。


「ただ、九朗チャンがあの子に惹かれる理由はなんとなくわかったなぁ」

「と、言いますと?」

「華だよ。彼女には華がある」


 瑠々子は「ハナ?」と首を傾げる。

 そんなものが一瞥しただけでわかるものか。常人には到底理解の及ばない話。

 伝わらないのは承知の上で独尊は説明を続ける。


「君みたいな勘の利くタイプは蜜の香りを鋭敏に嗅ぎ取るんだ。しかしそんな蜜を滴らせるような華には必ず棘もある。しかし逆に棘を辿れば華に行きつくこともある。そうやって多くの華を見つけてきたのが九朗チャンって訳だ」

「なるほど……抽象的でよくわからないです」


 あまりに直球な物言いに独尊は作り笑いを浮かべて頭をかく。


「まあ、そのうちわかるさ」



 ◇◇◇



 ようやく見えてきた赤い屋根の館に、九朗はスマートフォンのカメラを向ける。

 パシャリ、と一枚。鉄格子の向こうには手入れの行き届いた小さな庭。あるのは花壇と噴水。他には特に目立ったものはない。


 中に入る前にと、九朗は周囲を歩き回りながら更に二枚三枚。

 写真を撮っていると突然背後から肩を叩かれた。

 振り返るとそこにいたのは金髪の給仕。歳は九朗とそう離れていない。


「島内での撮影は禁止です」

「失敬、これは職業病みたいなものでね……」


 話を濁しながらスマートフォンをポケットにしまおうとする九朗。

 給仕はその手首を素早く掴む。


「今すぐ写真を消してください」

「断ると言えば?」


 給仕からの返答はない。

 ただ向けられるのは何を考えているのかわからない冷めた視線。

 九朗はやれやれといった様子で手首を掴まれたまま画面を操作する。


 データの削除を確認すると給仕は九朗から手を放し、そしてスカートを軽くつまんで会釈をした。


わたくし、猪碌館の管理を命じられている獅子堂ししどう童夢どうむと申します」



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