第12話

 九月某日、快晴。五十鈴いすず芽衣子めいこは足取り重く主人の車椅子を押していた。


「どうしたの五十鈴、なにか悩み事でも?」


 綾に尋ねられても芽衣子は「いえ……」と曖昧に受け流すばかり。

 もったいぶっている訳でもなく、単に切り出しにくいのだ。

 やっぱり行くのはやめましょう、などとは。


 小気味良い波の音。

 目の前にそびえる壁のような白い客船は、ぽっかりと口を開けて綾たちがやって来るのを待ち構えている。


「お嬢様、本当に行かれるのですか?」

「ええ。何か問題でも?」


 芽衣子の心配を一蹴し、綾はにこりと微笑む。

 はたして主人を乗せても良いのか。そんな悩みを増長させるような不愉快な足音が、背後からゆっくりと近づいてくる。


「そんな所で立ち止まられては後ろが支えて仕方がないな」


 九朗の方へと振り向くなり、芽衣子は血相を変えてにじり寄る。


「あなた、お嬢様にもしもの事があったらどう責任を取るつもりですか?!」

「さあ? 自営業はいつだって自己責任だよ」


 のらりくらりとかわすような問答に芽衣子は頭を搔きむしる。

 実際、誰にも責任は取りようがない。それは芽衣子自身にも。

 ゆえにこの船に綾を乗せることに大きな抵抗がある。


 うだうだと考えている横を、九朗は車椅子のハンドルを奪い通り過ぎる。

 流れるような体捌き。

 芽衣子は我に返って九朗の後を追う。


「待ってください! まだ乗るとは……」

「主は乗る気でいるようだが?」


 芽衣子が全力で腕を掴んでも、やはり九朗は止まることなく進み続ける。


「やめてください……。まだ心の準備がぁ……」

「あぁぁぁぁ! 間に合わないぃぃぃぃ!」


 後ろから聞こえた甲高い声に、芽衣子は驚き振り返った。

 キャスケットを被った黒髪の少女が、チェック柄の薄茶色いケープを乱しながら全速力で駆けて来る。


「えっ、ちょっ!」


 少女も芽衣子たちに気付いてスピードを緩める。

 が、減速は間に合わなかった。


「うぐっ!」


 衝撃と共に芽衣子は少女の帽子と共に宙に浮いた。

 情けない声をもらしながら臙脂色のカーペットに倒れ込む。

 対して少女は九朗の足元で尻餅をついて腰を撫でている。


「いてて……」

「ちょっとあなた、どこを見て走ってるんですか!」


 芽衣子はすぐに立ち上がり少女に詰め寄る。


「まあまあ、五十鈴」

「入り口を塞いでいた我々にも非があるだろう」


 綾の制止と九朗の正論に、芽衣子は眉をひそめて頬を赤らめた。

 九朗は少女に手を差し伸べる。

 少女は床に落ちていた帽子を拾い、その手を取ってゆっくりと立ち上がった。


「す、すみません! ボク、ちょっと目が悪くて……」

「構わないさ。怪我は無いかい?」

「えっ、あっ、はい……」


 答えるなり、少女の額にたらりと赤い筋が通る。


「おわっ! えっ! ちょっと……」

「これはいかんな。君、この子を医務室までお願いできるかな?」


 近くにいた乗務員は九朗に少女を預けられると、扉を閉じて船の奥へと足早に去って行った。

 したり顔を浮かべる九朗。その手には樹脂製のスポイトが握られている。


 間もなく船は汽笛を鳴らして、ゆっくりと横に揺れ動きだした。

 何も分からず困惑する芽衣子を見て、綾は耐えきれずに笑い声をもらす。


「いいようにやられましたね、五十鈴」

「えっ? どういうことですか?」


 九朗は困惑する芽衣子にスポイトを投げ渡す。

 中にはわずかに残った赤い液体。

 それを見て芽衣子はようやく理解した。


 自身の足元に倒れていた少女の頭部に九朗は素早く血糊を垂らした。

 周囲は当然それを怪我と誤認する。近くにいた乗務員は少女を医務室に運ぶ。

 出発時刻が近いため、他に客がいないのだから扉が閉められるのも必然。


 全て九朗にしてやられていたと知り、芽衣子の頭に血が上る。

 しかし今更怒ったところで何がどうなる訳でもない。

 船は既に出発している。


「さて、せっかくいい船に乗ったんだ。早めの昼食でも取ろうじゃないか」


 そう言って九朗は綾を連れて船の奥へと歩いていく。

 少し進むとエレベーターがあり、ボタンを押すと扉がすぐに開いた。


「早く来ないと置いて行かれちゃいますよー」


 綾に呼ばれて芽衣子は急いで駆け込む。

 案内板を見れば食堂は4階。

 綾が指を伸ばすが、九朗が先に6階のボタンを押す。


「えっ?」

「ん?」


 綾と九朗が互いに見合う。

 案内板を再度見ると、6階にあるのは売店と客室のみ。

 扉が閉じると共に綾は4階のボタンを押した。


「わかりました、多数決にしましょう。食堂でお昼を取りたい人!」


 言うなり綾は素早く手をあげた。釣られるように芽衣子も右に続く。

 ベルが鳴り、扉が開くが九朗は動こうとしない。


「民意の決定に不服でも?」

「好きにしたまえ。私はこういった所が苦手なのでね」


 車椅子から手を放し、九朗は壁にもたれかかる。

 綾は不満そうに頬を膨らませながらも芽衣子に「行きましょう」と声を掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る