第10話
忽然と姿を消したバティン。
状況を理解できない良太はただひたすらに視線を右へ左へキョロキョロと移す。
しかし目に映るのは綾と九朗の姿だけ。
「現れろ、バティン!」
良太が呼んでも返答はない。
「おい、バティン! 聞こえてるんだろ? 早く来いよ!」
「聞こえてないと思いますよ、私の考えが正しければ」
綾が何を考えているのかなど、良太には到底理解ができるはずもない。
もっとも懇切丁寧に説明する気も綾にはなかった。
とかく現状明らかなのは、良太がもうバティンの力を使うことができない、ということだけ。
こうなってしまうと良太にできることは何もない。
元の無力な一個人に戻っただけ。だが、それをそうと受け入れることを良太の頭は激しく拒む。
声を枯らして何度も何度もバティンを呼ぶ。
やはり反応はない。
繰り返すうち次第に声はかすれ、喉の奥から血の味が滲む。
辛い。苦しい。が、ここで呼びかけるのを止めてしまっては自分の無力を認めてしまうようで、良太は退くに退けなかった。
まったくもっての無駄な努力。
呆れた九朗は綾の乗る車椅子を押して交番を出る。
カタカタと体を揺らしながら綾は空を見上げた。
今にも雨が降りそうな灰色の空。
「ごめんなさい、勝手な真似をしてしまって」
「構わないさ。どうせ何をしたって少女たちは帰ってこなかっただろう。もっとも彼女たちも帰ってくることなんて願っていないだろうしな」
バティンを見た瞬間から九朗は悟っていた。
悪魔は人間を舐めている。対等な交渉なんて端からできようはずもなかった。
その状況下でこれ以上被害者を出さない、という最低限の目的を果たせたのは綾の手柄である。
「しかし意外だったよ。合わせ鏡の中で無限に悪魔を呼び続けるなんてな」
「あっ、いえ、さっきは無限なんて言ってみましたが厳密には限りなく無限分の一に近い状況に収束していっただけなんです」
何を言っているのかと九朗は首を傾げる。
「画面上の合わせ鏡は次第に小さくなり、ピクセル数も減っていくんです。何度も何度も焼き増しを繰り返せば最終的にはドット一つの世界に行く着くのですが、そこでは魔法陣なんてものは
神妙な面持ちを崩さない九朗を見て、綾は小さく咳ばらいをした。
「つまりは点一つで作られた世界の中では図形も言葉も表現できず、バティンは元の世界のあらゆるものを認識できなくなったんです」
「なるほど」
九朗は綾を車に乗せてバタンとドアを閉じる。
雲の隙間から差す日の光は、直視すれば目が焼けてしまうほど強烈に九朗の背中を照らした。
嫉妬すら焚きつかない圧倒的な怪物が、運転席に着くとすぐ隣にいる。
「そういえば一つ気になっていたのですが」
タバコを咥えて火を付けようとする九朗の袖を綾が掴む。
「このコート、どんな魔法が掛けられているのですか?」
疑問を抱かれるのも当然だ。
手帳数冊に大判の本が十冊、しまいには何台ものスマートフォンが収まるポケットなど常識的に考えて存在するはずもない。
「企業秘密だ」
「そうですか。でも、先にこれを見せてくれていれば魔術の存在を証明するのにわざわざ車を走らせる必要もなかったですよね?」
九朗は首を横に振った。
確かに彼の着るコートには魔術が施されている。
が、ただそれを見せるだけでは意味がない。
綾を魔術と対面させ、乗り越えさせることではじめて九朗の目的は完遂された。
現に綾の目は爛々と輝き、次の謎を探し求めている。
撒き餌は終えた。これ以上の遠回りは必要ない。
「魔術の存在証明なんて最初からどうでも良かったんだよ。私が知りたかったのは君が猪碌館に来るか否かだ」
返答は分かっていた。
流し目で見つめる九朗に、綾は瞳を閉じて微笑む。
まったくもっての愚問。故に綾は答えずに焦らす。
「どうしましょうかね。頭を使い過ぎて今はそんなこと考えられません」
タイミングを計ったかのように鳴る腹の虫。
九朗は頭に手を当てて小さくため息を漏らす。
「まったく君は……。歳を取ってから後悔しても知らないぞ?」
「もう、女性にそういうこと言ってはいけませんよ!」
一瞬の間をおいて二人は揃ってクスリと笑いだした。
エンジンを鳴らして車は交番から離れてまっすぐな道を進んでいく。
街は変わらず静かで、今日もゆっくりと薄暗がりに飲み込まれていった。
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読んでいただきありがとうございます。
少しもやっとする終わりですが、この事件はここで終わりです。
よかったら☆評価よろしくお願いします。
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