第5話

それから店を出て吉祥寺駅まで歩いて解散になった。

家まで歩いて帰る私は改札で皆さんを見送るつもりだったが、多羅先生だけ「タクシーで帰るから。」と電車に乗らなかった。

2人きりになると先生は言った。

「さ、夜道は危ないから家のそばまで一緒に帰るよ。」

「え!そんな、申し訳ないです。先生、お忙しいのに…。」

びっくりして遠慮すると「行こう。」と言って多羅先生は歩き出した。

「ひなちゃんのお家、井の頭公園の向こう側でしょ?久々に夜の井の頭公園とか行ってみたいんだよねぇ。」

多羅先生が言った。急に『ひなちゃん』と呼ばれた事にも驚いたし、意外とちゃんと契約書の住所とかチェックしてる事にも驚かされた。

コーヒーが飲みたい、と言う多羅先生と七井橋通りのカフェでラテをテイクアウトして、ブラブラと井の頭公園へ降りて行った。


「ねぇ、いつもここを通って帰るの?」

スカートの裾を持ち、ゆっくりと階段を降りながら多羅先生は言った。

「はい。橋を渡って向こうの階段登るとすぐ家なので。」

階段を降りると、外灯が夜の井の頭池を照らしカップルとかギターを弾く人とかがあちらこちらに居る。21時を過ぎてもパラパラと人の気配がある、それはいつも通りの景色だった。

「でもさ、ここもっと遅い時間だと怖くない?」

「いざというときは父か弟を呼ぶ事もありますが…。でもそんなに遅くなる事も滅多にない、ので。」

私は言った。多羅先生が池の前で立ち止まったので私も並んで隣で池を眺めた。「ふぅん。」と言って、先生が横から私を覗き込む。その距離は近く、なんだか妙にドキドキした。

「箱入り娘なんだねぇ、そんなひなちゃんが何故、漫画家になりたいと思ったの?」

黒目がちの瞳が楽しそうに湾曲する。

「えっ…と…。」

最初にすっ飛ばしてた面接が、今始まろうとしている?と一瞬疑いそうになってすぐに違う、と確信する。柔らかくしっとりとした体温が私の腕に絡みついてきたからだ。先生の白い腕に囚われて、私は身動き取れず固まった。

「どうしてぇ?」

耳元で囁かれ思わずビクッとすると暫くの間を置いてから「あはははは。」と明るい笑い声と共に絡まっていた腕が離れた。

「ね、橋の向こうのベンチでちょっとだけお喋りしてから帰ろうよ!」

多羅先生は言った。さっきとは全然違うカラッとした様子で、ズンズンと歩き出す。後を追い、七井橋を渡った。さっきのは一体何だったのだろう、酔ってるせいだろうか。川上さんの『独特な方なので』という言葉が頭をよぎる。心臓がまだドキドキしている。

ボート乗り場を過ぎて、橋を渡り切って右手にあったベンチに私達は並んで腰をかけた。

今度は多羅先生の距離感は普通で、腕を絡めたりくっついてくるような気配も無かった。

買ってもらったティーラテはまだ暖かく冷たい飲み物ばかり飲んでいたお腹をほっこりさせてくれていた。


「小2の時、『魔王の迷宮』ていうアニメに夢中になったんです。知ってますか?」

私は言った。私が漫画家になりたいと思った経緯をちゃんと話したい、と思った。

「うん、知ってる。小2だったのか、若いなぁ。」

多羅先生が言った。

「恥ずかしいんですけど、私の初恋その『魔王の迷宮』のジャレスだったんですよ。」

思い出すと恥ずかしくて思わず笑った。

ジャレスは魔の国を支配する王で、見た目は2枚目だった。だけどたまにヘマをする可愛らしい所があって、色んな悪事を働くのに憎めないキャラクターだった。

「ジャレスが初恋かぁ。まぁ分かるよ。確かに格好良かった。」と、多羅先生がうんうんと頷いた。


「もう本当に好きで、買ってもらったジャレスの縫いぐるみと一緒に眠って、毎日ジャレスの絵を模写してました。もう自由帳とか全部ジャレスで埋まるくらい。そのうちジャレスが主人公の4コマ漫画を描き始めたら面白くて。4コマの中で、自分を姫として登場させてジャレスと絡んでたんです。その時に好きなキャラを自由に動かせるって、なんて楽しいんだろうと思って。」

「二次創作ね。」

「そうなんです。二次創作をずっとやってて。中学生の頃には、自分が作り出したキャラクターを描くようになったんです。その頃から漫画家になりたいって思うようになりました。美大の附属校に通っていたけど周りには漫画を描いていることがどうしても言えなくて。絵を見られる事は平気なのに、自分の作った物語を人に読まれるのが物凄く恥ずかしかったんです。今も恥ずかしいですけど。」

私は言った。


「作品を発表するって自分から恥を晒しているようなものだもんね。」

多羅先生が当たり前のように唱える感じで言った。大事な言葉だ、と思った。セリフが大きな吹き出しに入って夜空に浮かぶ。私たちの他には近くに誰もいない、漫画だったら今のこのシーンに丸々1ページ使うだろう、そんな風に脳内に絵が浮かんだ。

「ひなちゃんの作品は共楽社に持ち込んだやつも、ネットに上がってるものもぜーんぶ読んだよぉ。」

多羅先生はそう言って、カフェラテを飲んだ。

「え、全部ですか?うわ、恥ずかしい…。」

びっくりした。大学に入ってからコツコツ漫画投稿サイトにアップしてきた作品達。そんな取るに足らないものまでまさか多羅先生が読んでくれていたなんて。

「ダイブの伊藤ちゃんが持ってきてくれた時、絵に雰囲気があって抜群に上手くてこの子には絶対私の背景を任せたいって思ったんだぁ。だからネットで『向ヶ丘ひな』の作品を探してぜーんぶ読んだの。ひなちゃんの絵は魅力的だよね。でもひなちゃんの漫画は正直心には刺さらないの。」

多羅先生のはっきりとした物言いに、思わず私は苦笑いする。

『向ヶ丘ひな』は、私のペンネームだ。ネットにアップした短い作品はどれも本当につまらない話しだという自覚はあった。ただ描きたいシチュエーションを綴るばかりの自己満足な漫画だ。

「私、昔から面白いストーリーが思いつかないんです。それが本当に悩みで。今もずっとプロットから先へ進めなくて…。」

「ほぉ。ストーリーねぇ…。」

「本当は、ダイブみたいな少年誌で描きたいんです。でも少年誌でウケるようなファンタジーとか、バトル要素とかコメディー要素とか、全然思いつかなくて。なんと描けるのは学園ラブストーリーものだから、悩みに悩んで絵柄を変えて少女誌のカチューシャに持ち込んだんです。」

「ふぅん。でもさぁ、ジャンルなんてもう今は無いに等しいよぉ?どんな話をどこで描いたっていいと思うし、少年誌でも学園ラブストーリーは連載されてるし。多少、ダイブに欠かせない要素は要求されるだろうけど。まぁ、週刊ていうのは締め切りがキツイけどねぇ。」

多羅先生が笑う。そして「それよりもさ。」と言いながら私の顔を覗き込む。

「ひなちゃんには、心を揺さぶられる何かが不足しているんじゃない?」

心を揺さぶられる何か?

「私達にはさぁ、どうしても描きたいと思わせる『何か』とか『誰か』が絶対的に必要だと思うの。表現すべきものは、感情の変化だからね。読者はキャラの心理描写を見たくて読んでいるから。それを描くには大前提として、作者の心がしっかり揺さぶられていないとって思うんだぁ。」

私は頷いた。あぁ、何が表現したいのかが大切なのは美大でも同じだ。私はそれを漫画にはストーリー第一だと当たり前に決めつけ過ぎていたのかもしれない。


「私がどうして『アギカ』を生み出して描き続けられてるか分かる?」


多羅先生にじっと見つめられる。私は黙って多羅先生の黒目を見つめ返していた。

真上から街灯がスポットライトみたいに私たちを照らしている。遠くから小さく聴こえるアコースティックギターの音色と歌声。私だけに聴こえる声で先生は言った。


「大好きな声優さんに会いたかったからだよ。仲良くなりたかったから、ただそれだけ。その人の事をイメージしてたらキャラクターが生まれて、ひたすらアニメ化目指して描いてきたの。ただの下心。めちゃくちゃ不純な動機でしょ?」


声優さん?誰だろう。主人公のアギカの声優さんは谷本杏奈さん。アイドル顔負けの可愛いらしさを誇る人気の若手声優さん、もちろん女性だ。

それなら親睦会でも話題になってたベアル役の笹田祐一郎さんの事だろうか。


「そんなもんなので、ひなちゃんにも何か原動力があるといいと思う。」


そう言うと、多羅先生はおもむろに立ち上がった。私もつられて立ち上がる。


「行こう。パパとママに心配かけちゃう。将来有望の漫画家の卵よ。」


本気なのか冗談なのかよく分からない口調でそう言うと、多羅先生は楽しそうに笑った。




家に帰り、リビングに寄るとあらたがまだ起きていた。

「ただいま。」

「おう、お帰り。多羅ぐりむ、どうだった!?」


ソファに座ったままこちらに身を乗り出すあらたに何と答えようか私は一瞬迷った。

多羅ぐりむは可愛らしい女性だったと本当の事を言ったら、漫画好きのこの子はきっと口止めしても親友なんかには喋ってしまうかもしれない。だけど今日の感じだと多羅先生はこのまま世間に自分は『おじさん』という認識で通したい、そう思っているような気がした。

「想像通りの人だったよ。」

私は、言った。

「なぁんだ、やっぱりおじさん?」

そう言って、あらたが笑った。

「真摯な人だったよ。夜道が危ないからって家の近くまで送ってくれたし。」

私が言うと、あらたは「へぇー…。」と言った。

「すごいじゃん、お前まさか先生に気に入られたりとかしたんじゃないの?」

「そんな感じでは無いよ。」

冷蔵庫を開けると冷気が顔を包んだ。

「凄いよなぁ。あの多羅ぐりむとさっきまで一緒に居たなんてさ。」

「私だって信じられないよ。」


暗闇で微笑む多羅先生の白い横顔、鈴の音の様なコロコロとした声が蘇る。本当に嘘みたい。たったさっきまで、多羅先生と一緒に居たなんて。


暫くあらたと他愛のないやりとりを繰り返し、私は自分の部屋へ戻った。

思わず部屋の本棚に並ぶ『無敵少女アギカ』のコミックの中から7巻を引っ張り出してパラパラとめくる。

そしていつも見てしまうページを開いた。


死神を召喚できる力をアギカに知られてしまった事で罰を受け、黒髪だったルイが、一瞬で白髪に変わるシーン。ルイはこちらをじっと見つめ、読者としっかり目が合うように描かれている。

その表情は本当に綺麗でいつ見たってドキドキした。


覚醒を迎えると同時に学校で孤立していくルイ。優等生の仮面が取れて本来の自分に出会い、敵対していたアギカと少しずつ打ち解けていく。そんな2人のさり気ない恋愛描写は、日頃の毒々しいアギカの言動とか暴虐非道な戦闘シーンとは対照的に、少女誌で描かれたとしても不思議ではないほどピュアで瑞々しい。

ぶつかり合っていた者同士が徐々に惹かれ合っていくとても難しい心の移り変わりを、多羅先生は見事に描ききっている。

この『心理描写』は私だけじゃなくて多くの読者を惹きつけて作品との距離感をグッと縮めたに違いない。多羅先生が狙い通り登場人物を動かしストーリーに波を作って行ったのか、それとも深く掘り下げられてしっかりしたペルソナを持つ登場人物達が勝手に動いて自然な波が出来上がったのか。どちらにせよ、心を掴んで離さない、今の私にはとても描けないような描写だった。

繊細で美しい絵と、無駄無くスッと頭に入り込む台詞力、そして読者をどっぷり入り込ませる世界観。私は大きな溜息を吐き、ベッドに座り込んだ。


どうしても描きたいと思わせる『何か』とか『誰か』

が絶対的に必要だという多羅先生の言葉が蘇る。

私には『心を揺さぶられる何か』が足りない。本当にそうだと思う。二次創作をしていた頃の方がよっぽど描き上げたいという熱を持っていた。好きなキャラクターを動かす事が、心底楽しかった。

ベッドに転がり、もう一度コミックに描かれたルイと見つめ合う。猫のように丸くて少し切長で三白眼の大きな瞳。多羅先生の『大好きな声優さん』とは、もしかしてルイの声優さんなのかもしれない。透明感があって少しだけ女の子のような甘い声もルイの大きな魅力のひとつだった。

子供の頃大好きだった『魔王の迷宮』のジャレスの声優さんを初めてテレビで観た時、小2だった私はしばらくの間、ジャレスと彼の区別がつかなくなった。

ジャレスの声で話す彼に酷く混乱して、そしてドキドキしたのを覚えている。もしかしたらあれが私の三次元の初恋だったのかもしれない。

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君の声のせいだよ 三浦カエル @kaerumiura

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