第4話

土曜の夜、吉祥寺の駅で待っていると川上さんが改札から出てきた。こちらに歩いてきた彼は、少し暑そうにふうふぅと息をしながら「桂木さん、早いですね。」と、小さな声で言った。

一度しか会った事が無いのに、すぐに私の事を見つけたしとても自然体でいい人だな、と思いながら「早く家を出てしまいまして…。」と私は言った。


「どうですか?アシスタント生活は…。」

川上さんが改札の方を見ながらポツリと言った。

「何の不自由もなくやれています。」

「それはよかったです。漫画は描けていますか?」

「漫画は、まだ構想中で…。」

「多羅先生の所にいれば、すごく勉強になるし、桂木さんならきっと良い作品が描けるようになりますよ。」

川上さんの口角がふっと上がった。

「え、そうですか?頑張ります…。」


せっかく編集者さんに褒めらたというのに、なんだか宙ぶらりんな返事しか出来なかった。それよりもこの後、ここへやってくるアシさん2人に会う緊張感の方が大きかった。多羅先生とも初めて会う。一体どんな方なのだろう。温厚なおじさんのイメージは正しいのだろうか。

「あの、多羅先生って…。」

男性ですよね?と聞こうとした瞬間、改札の方から2人の女性がこちらへ向かって来るのが見えた。


「お久しぶりです。」

「こんにちは。」


1人は赤い長い髪のスラっとした20代後半の女性、もう1人は30代くらいの背の低いふっくらした可愛らしい人だった。

「あれ?お2人一緒に来たの?」

「さっき、ホームで偶然会って…。」

2人ともあまりに美人なので、うわぁ、と見とれていると川上さんが「こちら、9月から新しく入った桂木ひなたさん。」と紹介してくれた。

「桂木です。宜しくお願いします。」

長い髪の人は芦田さん、ふっくらして可愛い人は柚木さんと言った。多羅先生は直接お店で待ち合わせらしく、私たちは駅を出た。


南口を出てひたすら線路沿いを歩いた。私の隣を柚木さんが歩いている。

「美大生なんだってね?何科なの?」

「油絵専攻です。」

「油絵描いてるんだぁ。すごい。」

「日々、教授にボロクソに言われてます。」

「そうなの?美大って厳しいのね。」

柚木さんが柔らかい声で笑う。ふわっとした見た目通りの可愛いらしい声で緊張が溶けていくようだった。


「柚木さんは多羅先生のところは長いんですか?」

「そうね。先生がデビューの頃からずっと居るよ。元々アシスタントは私1人で。昔は全然違う作風だったのよ。」

「えぇ…?」

私達の頭上を勢いよく中央線の車両が走り抜けていく。騒音が去ってから柚木さんが言った。

「もっと甘ったるいラブストーリーが多かったの。」

「意外です…。」

「あんまり知られていないけどね。ペンネームも違ったし。」

そう言って、ふいに柚木さんが「ふふふっ。」と笑った。

「ねぇ、あの2人さぁ。」柚木さんの白くてふっくらした手が前の方を指差す。

私達の少し前を芦田さんと川上さんが歩いている。

「並んでると、でこぼこコンビだよねぇ。面白い。」

「ほんとだ。」

背の低いずんぐりむっくりの川上さんと、細くてスタイルの良い芦田さんが並ぶとまるで漫画の世界のようだ。そんな川上さんが立ち止まり、振り返った。

高架下の店の前、私も何度か来た事がある昼はカフェ、夜は居酒屋になるお洒落なお店だ。


川上さんが予約した席は、ロフトの半個室だった。

天井の高い解放感のある空間で、私達は先生を待った。18時半にお店に入って20分は待っただろうか。先生は遅れていた。携帯をチェックしていた川上さんが「先生、今、駅に着いたそうなので飲み物頼んじゃっていいそうです。」と言った。また緊張が始まってしまった。オーダーを終えてから恐る恐る「先生って、どんな方なんですか?」と言うと、みんな顔を見合わせた。

「うーん、実写版アギカちゃんみたいな方だよね。」

芦田さんが言った。みんな納得したように頷いている。

「え…?」

アギカちゃん??どういう事?おじさんじゃなくて?


「お待たせぇ!ごめんね。もう飲んじゃってて良かったのにぃ。」

その時、急に声がして顔を上げると、知らない女性が立っていた。


厚みのある前髪の、毛先に金色のイヤリングカラーが入ったボブヘアがフェースラインを覆い、真っ黒なティアードのマキシ丈ワンピースが細身の小さな身体を包んでいる。なんだか映画で観た魔女の女の子みたいでギョッとした。

川上さんは立ち上がり「先生、こちらに。」と奥の席に彼女を促した。みんな口々に「お疲れ様です。」と挨拶している。私はあっけに取られ何も言えずにただ彼女を見つめた。

「ごめんねぇ。契約に時間かかって不動産屋さんで2時間半。重要事項説明なんてあるのね、長くてびっくり。」

多羅先生は、言った。長いスカートを両手で掴みながらソファに腰掛ける。なんとなく30代かとは思っていたけど、肌は少女みたいにツルツルな上、童顔で可愛らしくてまるで年齢不詳で、そんなところもやっぱり魔女みたいだった。

「え、先生引っ越すんですか?」

芦田さんが言った。

「うん。同じ中野区だけどね。今の仕事場、自宅と離れてて大変だから、広い部屋が欲しくてマンション買っちゃった。」

ふふふふ、と先生が笑った。そこへお酒が運ばれてくる。ウェイターが去ると、斜め向かいに座る先生がじっと私を見つめてニコリと笑いかけてきた。

「桂木さん、緊張してるぅ?初めましてだもんね。無理ないか。」

今までと違った急に優しい声を先生は出した。急に話しかけられ余計に緊張が増す。

「あ、あの…、先生は男の方だと勝手に思い込んでいたもので…。」

「あぁ、そうなのか。僕、世間では大概男だと思われているから、それがほぼ正解。さ、乾杯しようじゃないか!」

多羅先生はそう言って、目の前のビールグラスを持ち上げ微笑んだ。なんともわざとらしいセリフなのに先生が口にすると何故だか普通に聞こえる。皆んな平然とグラスを手に取る。私もまるでスパークリングワインにも見えるジンジャーエールの入ったグラスを慌てて持ち上げた。

「はい、乾杯。桂木さぁん、宜しくねん。」

多羅先生がニコッと微笑んだ。その小悪魔の様な笑顔に思わずドキドキしてしまった。


その後は、多羅先生の新居のインテリアについての話し合いが延々と続いた後、漫画を執筆する際の、ペイントソフトの話になった。急にみんなプロの顔になって、私はお酒が飲めないので緊張も手伝ってなかなか場に馴染めないというか自分がどうして今ここに居るのか、とても不思議な感じがしていた。

人気漫画家の多羅ぐりむ先生のチームに自分も居るということが未だに信じられない。週刊誌「ダイブ」が発売される度、自分の描いた背景が多羅先生の漫画の世界のひとつになっている事を目の当たりにしても信じられないのに、今、実際に多羅先生と向き合いご飯を食べている。不思議だった。

先生はけっして怖い人でもないし私なんかにも気を使ってくれる大人な方だけど、よく分からない凄みというかカリスマ性が溢れていて人を緊張させる人だった。少女の様にとっても可愛いらしいのに、だ。


「そろそろ先生、皆さんに発表しても良いですか?」

ふと、川上さんが言った。

あのペイントソフトはあの大御所先生が愛用しているけどとっても使いづらい、とか夢中で話していた多羅先生が「あ、例の大事な話し?」と川上さんと目くばせした。みんなが黙り込むと、途端に他のお客さんの話し声と小さく流れていた流行りのボカロ曲が耳に流れ込んでくる。例の話って、なんだろう。

「先生から、お願いします。」

川上さんが言った。

「えっーと、皆さま。このほど、アギカのアニメ第2期の制作が決まりましたー!」

多羅先生が両手を揃えて可愛らしくポーズを決めながら、言った。

「えーー!おめでとうございますー!」

「わぁー。やったーー。すごーい!」

みんな口々に喜んでいる。私もびっくりした。


『無敵少女アギカちゃん』のテレビアニメ第1期が終わり1年が経つ。私もリアルタイムで観ていたけれど、アニメ化されてから原作の人気も増し、第2期を切望するファンのコメントは毎日のようにSNSでも見かける。私がアギカの原作に携われている事が信じられない理由はそんな知名度や人気の高さから、というのもかなり大きかった。


「ま、また今回も深夜枠だけどねー。」

そう言って、先生が赤ワインを飲み干した。川上さんがすかさず、「先生、同じもの、頼みます?」と身を乗り出す。

「いや、アギカは大人な漫画ですから!深夜がいいんですよ!」

芦田さんが言った。クールなキャラだと思っていたけれど、だいぶ酔いが回っているのかテンションが上がっている。

「そうねぇ。子どものファンも物凄く多いけど…、ルイとアギカの恋愛描写も増えてきているしねぇ。あぁ第2期かぁ…。楽しみだなぁ。」

柚木さんがしみじみと言った。

「ねぇ、センセ!ベアルの声優さんはオーディションで決まるんですか?」

芦田さんが言った。

「あぁ、ベアルはね、笹田祐一郎くんでお願いしてる。叶うか分かんないけど。」

多羅先生が言った。

『ベアル』は、ヒロインアギカの相手役、クラス委員のルイが召喚する悪魔の美男子だ。真摯で残虐という二面性を持つ萌えキャラで、女子から圧倒的な人気を集めている。アニメ第1期ではまだ登場しておらず、第2期においての『ベアルの声優さん予想』がSNSでも勝手に繰り広げられていた。笹田祐一郎は若手だが色気のある低音ボイスが魅力の声優さんだ。芦田さんが「きゃぁーー!ベアルの声は笹田さん!絶対、笹田さんですよね!」と、急に乙女になり、はしゃぎ出した。」

「いや、まだ決定ではありませんし、どうなるか分かりませんから。皆さん、どうか第2期アニメ化のお話自体、内密でお願いしますよ。発表はもう少し先ですので…。」

川上さんが人差し指を口元に立てながら言った。

「まぁ、そうなんだけどさ。でも、気になるよね。」

多羅先生が芦田さんに向けて首を傾け「ねーー!」と一緒にはしゃいでいる。原作者なのにまるでアギカのいちファンの様だ。そんな様子を見せられたら、こちらもなおさらワクワクしてくる。


「ルイ役の色葉くんの声を考えると、笹田くんくらい重たい声が丁度バランス良いと思うのよ。色ちゃんの声、透き通ってて可愛いからねぇ。」

多羅先生がふふふ、と笑った。


思わず、頭の中でアニメのルイが動き出す。


先生の描く繊細な描写が、アニメーターさんの手によって、ハッキリクッキリとしたタッチで描かれ、そして声優さんによって、声という命が吹き込まれて『生きたルイ』へと、変換される。原作ファンからしてみたら、好きな漫画のキャラクターが動いてそして喋るなんて、とにかく幸せな事なのだ。私もそれはすごくよく分かる感覚だった。


そう確かにルイは可愛くて、澄んでいて、そして甘い声をしていた。

そんなルイに私は最近少し心を奪われている。だからまた動くルイが観られるのはとても楽しみだった。

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