第3話

大学から急いで家に帰ってきた私は、キッチンで入れたフルーツティーのマグカップを持って部屋に向かった。PCの電源を入れてから、机の隅にある小さなカゴを手に取った。休みの日に洋菓子店で買っておいたカヌレがまだいくつか残っている。1つ手に取って包みを開いた。今日もバイトは22時までの予定だ。


川上さんに会った翌日からアシスタントのバイトは始まった。今日でもう5日目になる。

カヌレを齧りながら共有ファイルの中身を確認すると、先生からの背景指示が記入された新たな原稿がいくつか入っていた。それを暫く確認していると17時になった。

『今から始めます。宜しくお願いします。』と、チャット画面に打ち込むと、すぐに「宜しくお願いします。』と、多羅先生から返事があった。


先生との全てのやりとりはチャットで行われる。


だいたいのアタリが描かれている原稿に下書きを描いていく。今日も主人公の住む、宮殿の内装が中心だった。資料として、ネットで良さそうなシャンデリアの画像を探す。多羅先生が喜んでくれそうなディテールは、原作を繰り返し読む事でスッと掴めた気がしている。


『無敵少女アギカちゃん』は、もともとは現代日本が舞台だった。

私立小学校に通う才色兼備のお嬢様、彩花は両親の期待を受けて何の苦労もなく大切にされ過ごしていた。しかし虐めがきっかけで、自分には恐ろしい力がある事に気づいてしまう。本気で怒りを感じた時、その怒りの対象者にダメージを飛ばせる力。彩花の特殊能力で怪我をしたいじめっ子は、彩花を退学に追い込む。転校した先の小学校は学級崩壊を起こしており、親に見放された彩花は、その特殊能力のせいで恐れられ、『アギカ』とあだ名を付けられ、どんどんと孤立していく。ひょんな事から学級委員の男の子ルイが影の理解者となる。実は彼は死神を召喚する特殊能力を持っていて、彩花を消すように魔王から指示されていた。けれどいつの間にか2人の間には恋愛感情にも似た友情が芽生え、怒った魔王は2人を中世フランスへとタイムリープさせてしまう。そんなわけで今は、中世フランスを舞台に物語が進行している。アギカとルイの住まいの宮殿は、背景にかなり手間がかかる。建物の内装、外観、そして小物に至るまで細かく緻密な書き込みが必要だ。週刊誌なので締め切りが毎週やってくるわけで、アシスタントの手が足りない。そんな中、私が指名されたという事だった。


川上さんが『独特な方』だと言っていたので棘がある人だったらどうしよう…と心配していたけれど、チャットでやり取りする限り、多羅先生は丁寧で紳士的な印象だった。質問すればすぐ反応してくれるし言葉の選び方も丁寧で私はすっかり安心していた。


それから数ヶ月が経ち、いつものように自宅で仕事をしていたら多羅先生から唐突にチャットがきた。


『来週末あたり、アシさんたちと親睦会やりたいのですが予定はいかがですか?』


ほぉ、親睦会とかやるんだ…。

思わず、独り言が口をついて出た。


多羅先生にお世話になり既に2ヶ月近く経つ。他のアシさんはもちろんのこと、多羅先生にもまだお会いした事が無い。お顔を公表していない多羅先生が、どんな容姿をしているのかもちろん知らないし、声さえ聞いたことが無かった。


『来週末ですね。土曜は大学がありますが夕方から空いております。』


メッセージを送るとすぐに返事が来た。


『桂木さん三鷹ですよね。今回は最年少の桂木さんに合わせて吉祥寺で飲みましょう。では土曜の夜でいいかな?時間と場所は後ほど決めます。』


『ありがとうございます』と返しながら、多羅先生がどんな方なのか思いを巡らせる。優しくて穏やかな30代の中肉中背の男性。勝手にそんなイメージをしていつもやり取りしていた。

多羅先生が『おじさん』という事だけは読者の間では有名だったし、私もそれを信じて特に編集の川上さんにも確認する事はしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る