第2話

「わぁ、びっくりしたぁ。またかよ…。」

あらたの部屋でダイブを読んでいたら、部屋に入ってきたあらたに踏まれそうになった。

「お前さぁ、俺の部屋の入り口で座り込むのいい加減辞めてくれる?マジでお化けかと思うから!」

バックパックを勢いよくベッドに投げながら、あらたが言った。

「…お化け?」

「そうだよ、そんな濡れ髪で。」

時計を見るともう22時過ぎだ。夕飯を食べてお風呂に入ってからずっとここで漫画を読んでいた。あらたが階段を上がってくる音すら全く気づかなかったし、髪を乾かす事すらすっかり忘れていた。

「漫画ばっか読んで…。お前、就活ちゃんとやってんの?」

「…え?」

ダイブを閉じて、私は目の前の弟を見上げた。


1つ下の弟は、私とは違う理系の大学に通う3年生だ。背が高く、スラッとしていて、わりとイケメン。勉強もできるしスポーツも好きだし、何でも広く浅くほど良く興味を持つくせに、漫画に関しては異常な収集歴がありコミックを1万冊近く所有していた。

読まなくなったものも捨てられず、部屋に入りきらない分は1階の納戸と和室にも収納されている。家のあらゆる場所が圧迫されているというのに両親は文句も言わずに大切に保管し続けてくれていた。

そして小さな頃から欠かさず毎週、少年ダイブを買い続けているのは私では無く、弟の方だった。

「就活は…、していないけど。」

就活なんて言葉をあらたの口から聴くなんて、私もついに弟から心配されてしまうようになったか…、とぽつりと思った。


「今日、共楽社に持ち込みに行ってきた。」

「え?お前、本当に漫画家になるつもりなの!?」

少年ダイブをあらたに手渡し、私は頷いた。

「マジか。ダイブの編集さんてどんな感じだった?」

あらたの目が輝いている。

「ダイブじゃないよ。私が持ち込みに行ったのはカチューシャだよ。」

「え?カチューシャ?お前って、少女漫画描いてたの?」

「いやぁ…、まぁ。とりあえず…うん。」

「ふぅん。少女漫画全然読まないのにね。」

あらたが無造作にダイブを机の上に置いた。表紙では人気バトル漫画のヒーローがニヤリと笑っている。

「で、どんな評価もらったの?」

ベッドに腰掛けて腕時計を外すあらたに私は今日伊藤さんに言われた事を話した。

「厳しいな。ひなたみたいに画力だけあってもダメって事か…。」


「そうだねぇ…。」


絵ならずっとずっと描いてきた。小さな頃から。小学校の時、数々のコンクールで入賞する私は自他共に認める「絵の才能のある子」だった。中学から美大の附属校に通い、絵の勉強はずっとしてきた。「絵が上手い」と言われる事は私にとっては褒め言葉でも何でもなくて普通の事だ。絵を褒められるたびに、生まれつき美人な子は容姿を褒められてもこんな風な当たり前の感覚なんだろうなぁ、と想像したりもした。私は息をするように毎日、絵を描いている。


「どんな話なの?ちょっと原稿見せてよ。」

あらたの形の良い手のひらが私に差し出される。

「原稿?あれ、どうしたんだっけ…原稿。」

そういえば、出力した原稿が手元に無い事を思い出す。

「原稿、編集さんが預かりますって言ったから渡してきたの。デジタルで描いてるから、PC開かないと見れないや。部屋くる?」

「預かりますって言われたの?すげーじゃん。」

「え?すごい?」

「よっぽどの作品じゃないと預かるなんて言われないらしいよ?普通はそのまま何も言われず持ち帰るって聞いた事あるけど…。」

「そうなの?全然そんな感触無かったけど…。」


伊藤さんは最後、まるでオマケのように淡々と私の原稿を受け取った。てっきり誰にでも同じようにしている事なのだと思っていた。あらたが立ち上がって言った。


「もしかしたら、何かあるかもよ?」


その3日後、あらたの言う通り、伊藤さんに呼び出され私は共楽社のダイブ編集部に来ていた。

ガラス張りの1階ロビーには外からも見えるように巨大なイラストがいくつも展示してある。

私はその、雰囲気のある絵の前で思わず吸い込まれるように立ち止まった。

まるでパステル画のような独特な柔らかな色彩。繊細なタッチ。愛嬌と冷たさを併せ持つ猫のような目をした少年。登場人物を描いたパネルの前に立つと、まるで本当に風が吹くような涼しさを感じた。ふわふわの白髪に眼鏡、貴族のような衣装を着こなす少年。過去にアニメ化もされた人気連載中の多羅ぐりむ先生の『無敵少女アギカちゃん』に出てくるキャラクターだ。こんな絵画さながらな絵を、多羅先生はデジタルで作画していると聞いた事がある。私は暫く時間も忘れて絵の前で動けなくなる。もっと見ていたい、どうしてこんなにも一人一人のキャラクターに華があるのだろう。


受付を済ませ奥のブースの指定された席に座った。隣から持ち込みをしてきたらしい男の子と編集さんの話す声が聞こえてくる。積極的に質問を繰り返す男の子は高校生くらいだろうか。私はしばらく彼の声に耳を傾けていた。とにかく漫画を描く事に対する空回りしている感じと熱量が伝わってくる。どんなストーリーをどんな風に考えて描いているんだろう。


「桂木さん、お待たせしました。」


ふと我に帰り、顔を上げると伊藤さんともう1人男性が立っていた。背の高い伊藤さんと比べるのは申し訳ないが、やや小柄のふっくらした人。私も立ち上がり会釈する。「どうも、こんにちは。週刊少年ダイブの河上と申します。」人当たりの良さそうなやや小さな声でそう言って、彼は名刺を差し出した。


伊藤さんから連絡が来たのは昨日、大学の講義中だった。講義後にかけ直すと「桂木さん、就活はしていないって言ってたよね?アシスタントやってみませんか?」と、開口一番彼は言った。

どの先生のアシスタントなのかは具体的には聞いていない。ただ、伊藤さんがダイブ編集部にいた頃、担当していた先生だという事、現在も連載中の人気作家でとにかく急ぎでアシスタントを探しているという事だけ言われた。とりあえず詳しい事は会って話したいからもう一度、共楽社に来て欲しいとの事だった。

どのみちこのまま就活せずに、漫画を描き続けるつもりだったから、誰かのアシスタントに就こうかなぁとぼんやりと思っていた所だ。迷う事なく伊藤さんと会う約束をした。


席に着くなり、伊藤さんは「今回、アシスタントをお願いしたい先生なんだけど多羅ぐりむ先生なんだ。確か、多羅先生も好きな作家さんに入ってたよね?」と、言った。

『多羅先生』と聞いて、自分の脈が急に速くなるのが分かる。身体中が反応しているのを感じた。

「はい、好きな作家さんの1人です。」


伊藤さんが満足そうに頷く。


「僕が今、多羅先生の担当してます。伊藤さんが君の絵を見てアシスタントに推薦してくれたんだよ。多羅先生の作風にあなたのタッチが合っているので僕が先生に見せました。先生は是非すぐに君にアシスタントとして来て欲しいそうです。」

川上さんは周りを気にしているのか、小さな声で言った。

「…そうなんですか。光栄です。」

私もつられて小さな声になる。

こんな事あるだろうか。思いもよらない所からきた思いもよらない依頼に自分が素直に喜びを感じているのが分かる。どこにも遠慮せず、温めてきた自信を差し出す所がまさに今、見つかったんだと一瞬で悟った。


「桂木さんはデジタル画ができるので、大学の講義の後、自宅で先生とやりとりしながらやってもらえれば、と考えてます。夕方から夜にかけての時間だけど週に3日とか4日とか…。どうですか?今、卒業制作とかもあって忙しいのかな?」


週に3、4日。きっと自分の漫画を描く時間は削られる。でも何よりも今タイムリーに足りない事を経験させてもらえる予感がする。私の血となり肉となるような。


「いえ、卒業制作の方は大丈夫です。その条件でお願いします。」

「良かった。お願いします。」

川上さんと伊藤さんが顔を見合わせてホッとしたような顔をした。そして2人で何か会話を交わすと伊藤さんは言った。

「じゃあ、僕はここで失礼しますが…。桂木さん、もしまた漫画が描けたら僕の方に見せてください。」

爽やかな笑顔を残して、伊藤さんは立ち上がると行ってしまった。そのスタイルの良い後ろ姿はまるで少女漫画のヒーローのようで、彼がカチューシャに異動になったのは宿命なんだろうなとふと思わせた。今後、カチューシャ向けの漫画を描くのかどうなのか自分でも分からない。なのに伊藤さんは「自分に見せてください。」と迷わずに言う。まるで自信家の、王子様のようだ。


「では桂木さん、これ簡単に先生との契約書なんだけど記入してもらえますか?」

気がつくと、川上さんによってテーブルの上に契約書が開かれていた。一緒に置かれたペンを取り、記入を始めると「あの、それとひとつだけ…。」と、ポツリと川上さんが言った。

「多羅先生、その、独特な方なので。何か困った事あれば僕に教えてください。」

「え?独特…なんですか?」

住所を書く手を止め、川上さんに視線を向ける。

「ん、あ、いやまぁ…。でも決して悪い方じゃないので、心配はしなくても大丈夫ですよ。」

ふっくらした顔が、困ったようにくしゃっと笑った。

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