第1話

夕日が差し込むガラス張りのロビーで、数分前に初めて会ったばかりの伊藤さんという編集の男性が、表情ひとつ変えずに私の原稿を読んでいる。


私は自分の膝に視線を落とした。待ち時間にと手渡された少女誌『カチューシャ』の最新号。この大手出版社『共楽社』の人気の少女漫画誌だ。パラパラめくり絵柄を眺める。子供の頃は毎月欠かさず買っていた。だけどいつからか夢中になれる作品に、この中では出会えなくなった。

ページをめくる手を止める。『お前の事、守るから』と、女の子の腕をギュッと掴む男の子。サラサラの前髪の隙間から覗く大袈裟に描かれた切長の瞳。そして次のコマには頬を赤らめる女の子が大きく描かれている。なんとも言えないその繊細な表情に私はしばらく目を奪われる。

そっと目の前の伊藤さんに視線を戻すと、アゴに手を添えて首を傾げて原稿を眺めていた。あまり良くない表情だ。最後のページまでいくと、何枚か前のページに戻してまたしばらく眺めている。ここからはどのページかは確認できない。編集の人は持ち込みの漫画を読むのが物凄く早い、と聞いていたけれど伊藤さんは比較的ゆっくりだ。少しでも良いところがあったらいいのだけれど…。


「拝見しました。」と、言って彼は顔を上げた。


「いかが…でしたか?」


蚊の泣くような情けない声が出る。描きながらこの瞬間を頭の中で何度もシュミレーションしてきた。自分の漫画をはじめて他人に評価されるこの瞬間を。


「まず、良い所から言うと。まぁ画力が高い…ところかな。背景が圧倒的に上手だね。専門的に絵の勉強をしてきたの?」

「あ、はい。美大に通ってます。」

「そっか。どうりで良く描けてる。小物とか…。人物描写もまぁ、今どきの絵柄だとは思うけど…。」

「はい…。」

伊藤さんは黙り込み、ペラペラと原稿をめくった。苦い表情だ。良い所はここまでなんだろうなぁと、なんとなく分かってしまう。

「じゃあ頑張ってほしい所、言うね。まず人物の表情が乏しいです。ほら、ここもここもみんな同じ表情に描いちゃってるでしょう?」

伊藤さんが主人公の顔をいくつか指差した。同じような無表情。私は頷き、用意してきたメモに『表情』と、書き込んだ。

「表情だけじゃなくて、主人公の人間性がきちんと描けてないです。だからどんな性格なのかが今いちはっきり見えてこない。読者が共感できないまま物語が終わっちゃってる。非常に残念だよね。」

私は急いで『主人公の人間性、性格、読者の共感』とメモする。伊藤さんは私の手が止まるまで待ってくれているようだ。顔を上げ伊藤さんの顔を見る。30代前半、スッキリとした顔立ち。編集という激務のイメージからは程遠く、顔色も良いし清潔感のある好印象な雰囲気の良い男性だ。私はいつの間にか伊藤さんを信頼し、緊張を忘れていた。とにかく伊藤さんの声に集中し、一語一句聞き漏らさずに帰ろうとペンを握りしめる。

「そもそも感情の起伏が起こりずらい内容だよね。日常の中でのラブストーリーだから難しいかもしれないけど、展開が今ひとつ足りないです。」

「展開…ですか。」

「そう。話しの流れが淡々としているでしょう?メリハリがない。コマ割りの段階で、感情の持って行き方を決めてるかな?この辺りで感情のピークが来て…とかパターンがあるんだけど、その辺りを意識してネームを描く事が大切。」

「はぁ…。」

展開、とメモしながらペンを握る手の力が抜けて行く。やっぱりだ、思っていた通りの事をそのまま言われている。私の作る話しはつまらない。自分でも読んでいて分かるくらいなんだから編集さんには言われるだろうと予想は、していた。そして唯一自信のあった絵の方も、無表情を指摘されてしまった。

期待していた奇跡は1ミリも起こらないまま、伊藤さんとの面談は予想通りの30分きっかりで終わってしまった。


共楽社を出た私は、大きな道路を挟んだ向かいのカフェに入った。


2階の隅の小さなソファが空いていた。腰を下ろした瞬間、ため息が漏れる。はじめての持ち込みは撃沈。そんな事予想していた、漫画の世界は甘くない。

温かいティーラテを一口飲み込む。スチームミルクのとろみが喉元を覆うと、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。

伊藤さんはよく当たる占い師のようにまさに的確な事だけを口にした。さすが大手出版社、人気雑誌の編集者だ。


「桂木さんて、少年漫画向きの絵だよね。男の子の方が断然魅力的に描けてる。」

伊藤さんは笑った。そして言ったのだ。

「どうしてカチューシャに持ち込んだの?あなたなら週刊少年ダイブじゃない?僕が言うのはおかしいけどさ。」


私は何も言えなかった。実際のところ月刊誌『カチューシャ』は、もう何年も読んでいない。好きな作家さんは?と質問され、返答に困った挙句、正直に人気少年誌ダイブの作品をいくつか挙げた。どの作品のコミックも私の部屋か弟の部屋に並んでいる。何度も何度も繰り返し読んで、セリフも覚えてしまうほど大好きな作品ばかりだ。アニメ化されたものも沢山ある。最後の5分はそんな好きな漫画の事で伊藤さんと盛り上がった。伊藤さんは、以前、週刊少年ダイブの編集者だったらしい。半年前に同じ共楽社の月刊カチューシャへ異動してきたという。


これからどうしようかな。もう一度、ため息が出た。

絵柄をガラッと変えるか、ストーリーをガラッと変えるか。そのどちらかだと伊藤さんは言った。どちらにせよ、今の私には色んなことが足りていない。少年ダイブに持ち込むのなら、またプロットから書き直して、ネームを描く作業からやり直しだ。けど、まったくダイブ向けの話が書ける自信が無かった。

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