この糸が切れないうちに

砂藤もなか

1 紫色のライラック

「ななか、起きなさい。遅刻するよ」

「んー…おきてるよぉ」


 はぁ、とため息をつきながら、布団に別れを告げ、寝ぼけ眼をこする。

 時計を見ると、7時40分を指していた。


「やば。ほんとに遅刻しちゃうじゃん」


 パジャマを脱ぎ捨て、かけてある制服に袖を通す。

 顔を洗ってうがいをして、寝ぐせも直さないままあたしは階段を駆け下りた。


「ななか、お弁当忘れてる」

「ありがと!」

「まったく、夜遅くまで何してるのよ。こんなにテストの点は低いのにね」


 うるさいなぁ。また小言かよ。

 心の中で悪態をつく。


「昨日は勉強してたよ。今日英語の小テストだから」

「昨日”は”?”も”の間違いじゃなくて?」

「あーはいはい、そうだね」

「ほんと、なんでななかはお兄ちゃんとお姉ちゃんに似なかったのかしら」


 また始まった、きょうだい差別。


「行ってきまーす」


 母のあきれた声を玄関のドアで遮って、今日もあたしは駅へと走る。


 ***


「はーあ、ほんとまいっちゃうよね、毎朝さぁ」

「ななかが朝早く起きれば…ま、夜型のななかにはきついねぇ」


 朝から大変ね、と友達の璃恋りこが机に突っ伏すあたしの頭をなでる。


「それにしても、なんでななかは勉強しないの。あんた、地頭いいから本気出せばいけるでしょ?」

「めんどいんだよね、努力するの。あたし、こつこつ毎日やるとか向いてないんだよ」


 今はまだ、女子高生として遊んでたいし。


「もったいな。成績とっとかなきゃどうすんの?大学の推薦もらえないよ」

「もう、璃恋までそういうこという。やめてよー」

「あー、ごめんごめん。だってななか、やればできるのにさぁ」

「ま、気が向いたらやるよ」


 ふぁ、と大きなあくびをして、カバンから教科書を取り出す。


「あれ、1限って化学じゃなかった?」

「嘘だぁ」


 数学の教科書を手に、あたしは璃恋を見上げた。


「昨日担任が言ってたじゃん。明日出張だから1限は化学になる、って」

「はぁ?だる」

「化学の仲元教科書忘れたらうるさいよ」

「もーさぼってくるわ。保健室って言っといて」

「え、ちょ、ななか!?」


 困惑した璃恋を置いて、あたしは教室を出た。


 教室を出て、走って、あえて人通りの少ない暗い廊下を選ぶ。

 そこは、使われなくなった教材と資料の置き場や、なぜつくられたのか分からない空き教室などが並ぶ、日当たりも悪い廊下。

 まるで、過疎地のシャッター商店街のようだった。


 その廊下をずんずん進んでいくと、屋上へ行くための秘密の扉があった。

 秘密かはわからないけど。

 きっと、あたししか知らない。

 あたしだけの避難所。


 ギィ、と重い扉を開けると、陽の光が差し込んで目の前が一瞬白くなった。

「さむ…やっぱ上着も持ってくるべきだったか」

 12月の中旬。さすがに上着なしで外にいるのはきつい。

 仕方ない、やっぱ保健室で寝とくか。

 そう思ったとき、あれ?と誰かの声がして、陽の光が遮られた。


「君もサボり?」

 あたしを見下ろしていたのは、短い髪の毛をちょこんと後ろで結んだ、先輩らしき女の人だった。

「誰ですか」

「そんな敵視しなくても。私も君と同じサボりなんだからさ」

 にしし、と意地悪気な笑みを浮かべて、彼女はあたしにぶかぶかの上着をかけてくれた。

「何ですか」

「寒いでしょ?私はブランケットあるから」

「ありがとうございます…って、だから!」

「おお、どうした」

「あなた、誰ですかって言ってるじゃないですか」

「あ、そっかそっか、名前言うの忘れてたね」

 彼女は制服のポケットからわざわざ学生証を取り出して、それをあたしに見せながら言った。

虎谷姫乃こたにひめの、高3だよ。君は?」

「高2の咲間さくまななかです」

「ななちゃんね、OK」

「ななちゃん!?」

「あ、嫌だった?んー、じゃあなーたんとか」

「ななちゃんで大丈夫です」

「冗談だよ。ね、こっち座って喋ろうよ。ななちゃんは1限なんだったの?」


 ななちゃん呼びは変わらんのかい。

 なんて思いつつ、日当たりのよいところに二人で座って、彼女との会話を続けた。


「ほんとは数学だったけど、出張でいないから化学になったんです。でも化学の教科書忘れちゃって」

「あー、仲元?あいつ忘れたやつにだるいもんねー。てか、なんか敬語じゃ堅苦しいからタメにしてくれない?」

「え、でも先輩…」

「いいの。あと私のことは先輩呼びしなくていいから」

「じゃあ、なんて呼べばいいの」

「好きなように呼んでくれればいいよ」

「んー…ひめの…ひめちゃん、とか?」

「ひめちゃんいいね。それで」

「はい」


 何この人。おもしろい。

 ていうか、高3って言ってなかったっけ?


「え、大学は?」

 12月なのに、大丈夫なのかな。


「あはは、私こう見えて成績優秀だからさ、推薦でもう決まってるんですよー」

「そうなんだ…」

「ななちゃんこそ大丈夫なの?」

 そう言ってまた、彼女は意地悪に笑ってあたしを見下ろしてきた。


「まだ決まってなくて」

「え?やばいじゃん。評定はいくつぐらい?」

「3.9…」

「えー…それじゃ厳しくない?」

「まぁ、就職でいいかなって」

「そっかー…ま、わかんないとこは聞きなよ。こう見えて成績優秀だから」

「それさっきも聞いたんだけど」

「あは、そうだっけー?」


 へらり、と彼女が笑った。

 真っ白い八重歯がちらりと覗く。

 彼女の横顔は美しかった。


「どーしたの、ななちゃん。そんな私のこと見つめて」

「は?…別に、見つめてないし」


 いつの間にか彼女の横顔に見惚れていた。

 それくらい彼女は、あたしの心を惹いた。


 もっとこの人のことを知りたい。

 仲良くなりたい。


「ね、ななちゃん、インスタ繋がろうよ」


 あたしがなかなか言い出せずにいたその言葉を、彼女はいとも簡単に口にした。


「いいの?」

「もちろん」


 これ私のアカウント、と言って彼女がスマホを差し出す。

 彼女のアカウントのアイコンは、私の好きなバンドだった。


「せんぱ…あ、ひめちゃん…も、このバンド好きなの?」

「うん、好きだよ。もしかしてななちゃんも?」

「あたしも…中三ぐらいにハマった」

「私も同じくらいかも。高一の時ライブ行ったもん」

「いいなぁ」

「そうだ、こんどのライブのチケット2枚あるから行かない?」

「え?いいの!?」

「ちょうど一緒に行く人探してたの。来月だったよね。空いてる?」

「うん、空いてる!」

「よし、じゃあ決まりね。また連絡するね」

「ありがとう」


 彼女と繋がったスマホを握りしめる。

 ただインスタを繋げただけなのに、なぜこんなにも嬉しいのだろう。


「ほら、もうすぐ教室戻らないと2限始まっちゃうよ」


 彼女の声で我に返る。


「ほんとだ、もうこんな時間」

「行ってらっしゃい。頑張ってね」

「うん。ありがと」


 ばいばい、と手を振って、あたしは暗い廊下を走る。

 でもその足取りはなぜか軽かった。


「あ…上着」


 彼女に借りた上着を羽織ったまま走っているのに気が付いた。

 ふわりと、さっき隣にいた彼女の香水が匂う。

 甘い、心まで溶かしてしまうような香り。


「あ、ななかー!あんた保健室いなかったでしょ」

「璃恋…」

「どこいってたの、まったく。先生に言い訳すんのめんどくさかったんだから」

「ごめん、ありがと…」

「今度スタバの新作おごってよね」

「えぇー…だるい」

「あんたねぇ!…てかその上着どうしたの」

「あぁ…さっきまで一緒にいた人に返し忘れてて」

「早く返してきなさいよ」

「うん、まぁ…」


 胸がトクンと鳴っているのは、きっと、廊下を走ってきたからだ。


 そう自分に言い聞かせて、あたしは2限の準備をした。








 紫色のライラック恋の芽生え、初恋

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この糸が切れないうちに 砂藤もなか @monaka_08

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